合成肉の味、ビニールの手触り
──平成0x29A年07月03日 08:20
平成0x29A年07月03日、午前8時20分。
「おはようございます。拓人さん、本日のシフト、8時からです」
AI秘書の澄んだ声が、まだ人の少ないライフストアのバックヤードに響く。
「分かってるよ、ミミ。いつもありがとう」
俺はロッカールームでエプロンの紐を結びながら答える。ミミは、シフト管理から発注まで何でもこなす賢いAI秘書だ。
レジに着くと、照明がまぶしい。早番は気が滅入るが、今日のセール品は合成食品プリントの「プレミアム霜降り肉」だ。きっと賑わうだろう。
「山下、おはよう」
代理エージェントの「β-3」が、俺の網膜に直接メッセージを送ってきた。β-3は、祖父が倫理検査でドック入りしている間だけ俺に付いている。祖父、吾郎は享年70、脳梗塞で亡くなった。生前は町の電気屋で、古くて頑固な職人だったが、機械の知識は豊富だった。
β-3は祖父の学習データを基にしているはずだが、どうにも会話が噛み合わないことが多い。
「おはよう、β-3。何か変更は?」
「特にありません。ただし、0x29A-P-402ユニットによる『食料自給率向上に関するドクトリン改訂』により、合成食品プリントの割引コードが一部変更されています。お客様がQRコード決済を利用する場合、誤認識にご注意を」
頭の中でグラフが展開される。また党ドクトリンか。複雑な割り引き条件に、毎度客が首を傾げるんだ。
最初の客が来た。まだ若い男性客で、棚から取ってきた惣菜のパックと、レジ脇の端末を指差した。
「これ、合成食品プリントで、霜降り肉、200グラムでお願いします」
「はい、承知いたしました」
俺が端末を操作しようとすると、β-3が割り込んできた。
「お客様、合成食品プリントの肉は、そのままでは味気ないですよ。我が祖父の店では、昔のゲーム機で遊べる『スーファミ』というデバイスを使って、肉に豊かな風味を付与していました」
俺は思わず客と顔を見合わせた。客は苦笑している。「スーファミって、任天堂のですか? 流石にそれは…」
「β-3、余計なことは言わないでくれ。それは昔のゲーム機だ」
心の中でβ-3を黙らせる。
「失礼しました。200グラムですね。今日のプレミアム霜降り肉は特別価格です」
合成食品プリント機がウィーンと音を立て、霜降り模様の肉を瞬時に生成していく。まだ温かい。
二組目の客は年配の女性だった。カゴいっぱいに日用品を詰め込んでいる。
「あのね、ビニール傘、一本欲しいんだけど、どこにあるかしら?」
俺が棚の場所を伝えようとすると、またβ-3が口を挟んだ。
「おばあちゃん、ビニール傘なんて脆くてすぐに壊れますよ。祖父の店では、頑丈な骨組みの傘を修理して、一生モノにしていたんです。ビニールを張り替えるだけで新品同様に!」
女性客は目を丸くして、ビニール傘を手に取ったまま固まっている。
「β-3! そういうサービスは今はやってないんだよ! お客さん、こちらでよろしいですか?」
俺はβ-3の言葉を無視し、会計を進める。女性客は「ええ、これでいいわ」と戸惑いながらもビニール傘を差し出した。
会計を終え、ビニール傘のバーコードを読み取る。
「合計で1,280円です」
「あら、安くなったのね。助かるわ」
女性客はそう言って、慣れた手つきでガラケーを取り出し、決済アプリを起動した。
その日一日、β-3の的外れなアドバイスは続いた。割引制度の複雑さを「昔のポイントカードの方が分かりやすかった」と評したり、商品の陳列方法を「家電製品はもっと機能ごとに並べるべきだ」と主張したり。
夕方、シフトを終え、更衣室でエプロンを外す。雨が降っていた。俺は帰り際に一本のビニール傘を買った。透明なビニールの向こうに、ネオンサインが滲んで見える。
「この傘、手触りがいいですね。祖父の店で修理していた傘も、こんな感触だったような気がします」
β-3が、今日初めてまともなことを言った気がした。祖父はよく、修理した家電や傘の「手触り」を大切にしていたのを思い出す。雨粒がビニール傘を叩く音が、どこか遠い平成の記憶を運んでくるようだった。
俺は、濡れたビニール傘を握りしめ、冷たい雨の中を歩き出した。β-3の言葉は、まるで亡くなった祖父が隣にいるかのような、奇妙な手触りを残していった。