終電ビーコン、単三の残量
──平成0x29A年05月11日 21:00
夜の九時を回ったホームに、私しかいなかった。
第14交通ブロック、東環状線の末端駅。蛍光灯が一本切れかけていて、ジジ、ジジ、と虫の断末魔みたいな音を立てている。ベンチの脇に据えつけられた位置情報ビーコンの筐体が、かすかに熱を持っているのが手の甲でわかった。
また電池だ。
私は肩にかけた工具バッグからペンライトを取り出し、筐体の裏蓋を外した。単三電池が八本、二列に並んでいる。液漏れはしていないが、残量表示のインジケータがすべて赤に変わっていた。
「ナツキ、在庫あったっけ」
耳の奥で、祖母の声がした。
『ええとね、左ポケットに四本。バッグの底に十二本。足りるわよ』
祖母・宮沢ナツキ。享年八十一。三年前に肺気腫で亡くなった。生前は国鉄——もう何百年も前に消えた組織の名を、祖母はずっと使っていた——の駅務員だったらしい。私のエージェントになってからも、時刻表の話ばかりする。
バッグの底をまさぐると、確かに乾電池の山が指に当たった。今日だけで三駅分、合計三十六本を交換している。位置情報ビーコンは近傍通信タグと連携して、乗客の端末に乗換案内を飛ばす仕組みだ。電池が切れれば案内も止まる。誰も降りない駅でも、通過する列車の中で一瞬だけタグを拾う人がいるかもしれない。それだけのために、私は毎晩こうして電池を詰め替えている。
新しい単三を押し込むと、筐体の小さなLEDが青く点いた。ビーコンが再起動し、近傍通信タグへのハンドシェイクが走る。私のガラケー——折りたたみ式の、ヒンジが少しゆるくなったやつ——の画面にも、iモードサイトの乗換案内ページが自動で開いた。トップ画面の「ようこそ!乗換ナビi」のロゴが、ARの半透明レイヤーの上に二重写しで浮いている。画面の中と、視界の端と。同じ情報が微妙にずれた書体で重なっていて、いつも少しだけ目が疲れる。
『次の巡回、二十三号駅でしょう。終電に乗らないと間に合わないわよ』
「わかってる」
裏蓋をネジで留め直していると、ホームの向こう側に一人、老人が立っているのが見えた。杖をついて、電光掲示板を見上げている。表示は「次発 なし」。終電はあと十二分後のはずだが、ビーコンが落ちていた間は案内が届かなかったのだろう。
私はガラケーを開いて、乗換ナビのページをスクロールした。時刻表のテキストをそのまま老人に見せようと近づく。
「あと十二分で来ますよ」
老人は画面を覗き込み、ゆっくりうなずいた。「ありがとう。この駅、案内が出なくなってね。もう廃止かと思った」
廃止。その言葉に、祖母が耳の奥でわずかに息を吸う気配がした。
『ナツキのとき——』
祖母はそこで止まった。言いかけて、飲み込んだのだ。国鉄がなくなったときの話を、彼女はいつも途中でやめる。
老人がベンチに腰を下ろした。私は工具バッグを肩に戻し、反対側のベンチに座った。蛍光灯がまたジジと鳴った。
ポケットの中で、使い終わった単三電池が四本、互いにぶつかって小さく鳴る。
『あの人の端末に、ちゃんとビーコン届いてるわね』
祖母の声が、少しだけ明るかった。
十二分後、終電が来る。私はこの駅を出て、次の駅へ行く。また電池を詰めて、また小さな青いLEDを点ける。祖母がかつて関わった路線は、もう名前も番号も変わってしまったけれど、ホームの形だけはたぶん似ている。
線路の向こうから、ヘッドライトの光がゆっくり近づいてきた。老人が杖を握り直して立ち上がる。
私も立った。
バッグの底で、まだ使っていない乾電池が、ことりと鳴った。