色褪せた笑顔の最終意思

──平成0x29A年01月12日 05:40

静まり返ったオフィスに、MOディスクがドライブに吸い込まれる鈍い音が響く。
平成0x29A年、午前五時四十分。窓の外はまだ藍色に沈んでいる。

「またその化石か。いい加減、網膜に焼き付きそうだ」

思考に直接響く父の声は、生前と変わらず皮肉っぽい。僕の専属エージェントである父、遠藤健一。三年前、心筋梗塞で急逝したベテランの信託銀行員だった。

「仕方ないだろ、親父。遺言データがこれにしか入ってないんだから」

ディスプレイに、二百年以上前のファイルシステムがエミュレートされる。例の富豪の遺産相続案件だ。デジタル署名はとうの昔に失効。だが、最近の党ドクトリンの迷走で、物理的な証拠の価値が異常に高まっていた。
いわゆる「アナログ手続きの復権」。僕ら現場の人間にとっては、ただの混乱でしかない。

「そもそも、あの強欲な男がこんな杜撰な記録を残すはずがない。何か裏がある」
「可能性の話をしても進まない。僕は事実から積み上げるだけだ」

AI秘書〈さつき〉に命じて、遺品リストを再度クロス検索させる。キーワードは「手書き」「記憶」「記念」。無機質な音声が、膨大なリストから該当候補を弾き出していく。

しばらくして、〈さつき〉が三次元モデルを空間に投影した。古びた手帳だ。
『遺品コード088-B。通称、プリクラ帳。平成初期のものです』

ページをめくるシミュレーション映像。色褪せた小さな写真シールがびっしりと貼られている。その中の一枚、隅の方で、富豪である老人が孫娘らしい少女とぎこちなく笑っていた。
日付は、遺言が作成されたとされる日の、ちょうど翌日。
そして、写真の余白に、キラキラしたペンで稚拙な文字が書き込まれていた。『じぃじと、やくそくの日!』

「…まさか」

僕はMOディスクに入っていた手書きメモのスキャンデータと、プリクラの落書きを並べて表示させた。素人目にも分かる。富豪が孫娘に書かせたであろうその文字は、メモの震えるような筆跡と奇妙な一致を見せていた。

「くだらん。そんなものが最終意思の証明になるものか」
父のエージェントは、吐き捨てるように言った。
「でも、これしかないんだ。この“約束”が、遺言の信憑性を補強する唯一の証拠になるかもしれない」

僕は意を決して、プリクラ帳とMOディスクを『物理証拠保全システム』に登録申請した。
分厚い防弾ガラスの向こうで、自律警備ドローンが赤いサーチライトを明滅させながら低空を滑っていく。社会はこんなに自動化されているのに、僕の仕事はどんどん過去へ遡っていく。

申請バーが九十九パーセントに達した時、父が不意に呟いた。

「…待て。そのプリクラの背景を拡大しろ」

言われるがままに、画像の解像度を最大まで引き上げる。写真の背景、ゲームセンターの喧騒の中に、ぼやけた機械の筐体が写り込んでいる。
それは、僕らの銀行がかつて契約認証に使っていた旧式の端末だった。

「あの男は、正式な契約を終えた安堵感から、孫娘とプリクラを撮りに行ったんだ。あの端末で、あの日に、法的な手続きを済ませた後でな…」

父の声には、いつもの刺々しさがなかった。まるで、遠い昔の同業者の仕事ぶりに感心しているような響きがあった。

「…まあ、悪くないやり方だ。デジタルとアナログの隙間を、人の感情で埋める。俺には思いつかなかった手だ」

不意に、ディスプレイに『承認』の二文字が淡く光った。
僕は、全身から力が抜けていくのを感じながら、深く息を吐いた。

「拓海」

静かな父の声が、思考を満たす。

「俺が死んだ時、お前に何も残せなかったと思っていた。だが…こういう泥臭い仕事のやり方だけは、どうやらお前に継がせられたらしい」

僕は何も答えられなかった。
ただ、MOディスクのイジェクトボタンを押す。カチャン、という軽い機械音だけが、白み始めた空の下、やけに大きく響いていた。