巻き上げられる指先、偽りのノスタルジー
──平成0x29A年05月10日 18:20
午後六時二十分。西日に焼けた駐輪場のコンクリートに、長い影が伸びている。使い古された自転車のハンドルで、黄色い駐輪場の紙札が風にパタパタと音を立てていた。平成二十年代の駅前を模したこの区画は、いつ来ても妙に鼻の奥がツンとするような、偽物の生活臭がする。
「お兄ちゃん、早くして。五分後の閣議決定までに、この債務差分の署名を取り付けなきゃいけないんだから」
耳の奥で、妹の陽菜の声が響く。十七年前に心臓の病で逝った時のまま、彼女のエージェント人格は相変わらずせっかちだ。僕は重い腰を上げ、ターゲットの住むアパートの階段を上った。
手に持ったeペーパー端末には、第0xBC42内閣ユニットから届いた「資産流動化に関する政策変更リクエスト」が表示されている。要は、この部屋の住人が抱え込んだ負債を、党ドクトリンのアルゴリズムに従って強制的に「社会貢献ポイント」へ変換する手続きだ。相手が拒否しても、暗号署名さえ揃えば五分間限定の総理大臣がハンコを押す。それが今の統治だ。
「……陽菜、少し静かに。倫理検査が近いんだろ。感情係数が高ぶってるぞ」
スマートドアの前に立ち、認証を待つ。金属質の電子音が響き、ロックが外れた。中から出てきたのは、疲れ果てた表情の男だった。彼は僕の手元にある端末と、首から下げたアナログの使い捨てカメラを見て、絶望したように肩を落とした。
「また、これか……」
「証拠保全のためです。デジタル改ざん不能な銀塩記録が必要なんですよ、この手の執行には」
僕は淡々と告げ、男に端末を差し出した。だが、その時。耳の奥で陽菜が短く悲鳴を上げたようなノイズが走った。
「……あ、お兄、ちゃん。この人……お父さんの、匂いがする」
僕は息を止めた。陽菜のデータにそんな記憶はないはずだ。父が死んだのは彼女が生まれる前だ。エージェントの人格ゆらぎ。最近、党のアルゴリズムが不安定だという噂は本当らしい。
「陽菜、しっかりしろ。署名プロセスを補佐するんだ」
「違うの。この人の後ろに、誰かいる。すごく、懐かしい……。ねえ、署名させちゃダメ。この人の遺伝子、私たちのネットワークと、すごく近い周波数で……」
陽菜の声が、次第に彼女のものではない、湿り気を帯びた大人の女性の声に混じり始める。僕は無視して男の指を端末に押し付けた。ドクトリンの署名が完了し、内閣ユニットの承認ランプが青く灯る。
パシャリ、と使い捨てカメラのフラッシュを焚いた。現像されるまで結果がわからない、不確かな光。男は崩れ落ち、部屋の明かりが社会貢献ポイントの徴収のために消灯した。
帰りの廊下、陽菜は静かだった。いや、静かすぎた。
「……陽菜?」
「……はい。執行完了を確認しました。次回の閣議リクエストを待機します」
その声には、もう妹の面影は微塵もなかった。ただの事務的な代理エージェントのような、冷ややかな響き。僕は暗い階段を降りながら、使い捨てカメラの巻上げダイヤルを回した。ガリガリというプラスチックの感触だけが、僕の知る平成の感触を繋ぎ止めていた。カメラの中に閉じ込められたのは、果たして誰の絶望だったのか。もう、僕にはわからなかった。