量子ロックの窓口、父の手続き
──平成0x29A年06月05日 16:50
午後五時前の第4行政ブロック・バーチャル役所。俺は窓口端末の前で、画面に浮かぶ老人のアバターを見つめていた。
「すみません、もう一度お名前を……」
老人は穏やかに繰り返す。俺は手元のFAX機——古い熱転写式だ——から吐き出された申請書を確認する。戸籍変更申請。差分リクエストとしては単純なはずだった。
「量子乱数ロックが合わないんですよ」
俺の隣で、父のエージェントが呟く。
『充電式NiMHの電圧が落ちてるんじゃないか』
父は生前、この窓口で三十年働いていた。享年六十四、心筋梗塞。俺が二十のときだ。今は俺の補佐エージェントとして、ヘッドセット越しに助言をくれる。
「電池は昨日換えたばかりですよ」
『なら暗号だ。ドクトリン署名のバージョンが古いんだろう』
窓口端末の下、予備電源ボックスを開ける。単三型NiMH電池が八本、整然と並んでいる。満充電のはずだ。だが老人の申請書に埋め込まれた量子乱数ロックは、何度スキャンしても認証を拒否する。
「少々お待ちください」
俺はバーチャル空間の老人に頭を下げ、裏の手続き室に入った。壁際には旧式のサーバーラックが並び、その脇に——なぜか——MDプレイヤーとストリーミング端末が同居している。平成エミュの混線だ。誰も気にしない。
父のエージェントが囁く。
『この手の不一致は、たいてい相手側のロック生成が古すぎるんだ。党ドクトリンの更新についていけてない』
「どうすればいいんですか」
『……昔はな、手書きで差分を書き直して、FAXで送り直したもんだ』
「FAXで?」
『ああ。量子ロックなんて飾りだった時代もあるんだよ』
俺は父の言葉に従い、老人の申請内容を手書きで清書した。それをFAX機にセットし、受信トレイに送る。自分から自分へ。ノイズ混じりの紙が排出される。それを再スキャンすると——通った。
量子乱数ロックが、なぜかエラーを吐かない。
バーチャル窓口に戻ると、老人が静かに待っていた。
「お待たせしました。手続き、完了です」
「ありがとうございます」
老人のアバターが消える。俺は深く息をついた。
『よくやった』
父の声が、いつもより柔らかい。
「……父さん、倫理検査、来月でしたよね」
『ああ』
「代理エージェント、どんな人になるんでしょうね」
父は少し黙った。
『……お前が困らない奴だといいな』
窓口端末の隅に、次の来客通知が点滅する。俺はヘッドセットを付け直し、画面を開いた。FAX機がまた、小さく唸りを上げている。