承認の瞬き、ビニール傘の街角で

──平成0x29A年10月23日 22:50

 二十二時五十分。カウンターの端に置かれたプリクラ機が、無機質なピンクの光を放って、不機嫌そうな客の顔を白飛びさせている。

「……ですから、お客様。現行の党ドクトリンにおける『資産の再定義』と、お客様の個人データがうまく同期できていないんです。平成二十年前後の住宅ローン減税プロトコルが、なぜか今になって再帰的に発動してしまいまして」

 俺は頭を下げながら、網膜ディスプレイに浮かぶ真っ赤なエラーログを必死に指でスワイプした。

『健人、そんなに焦らなくても。その人の曾祖父さんの代の納税記録が、暗号化の階層で迷子になってるだけよ。ほら、ここを右にフリックして』

 耳元で、母さんの声がした。四年前、肺疾患で亡くなった母さんの人格エージェントは、こういう時だけ妙に手際がいい。

「母さん、静かに。……お客様、もう一度だけ、そのプリクラ機——失礼、多角認証スキャナに顔を寄せていただけますか? 当時の『美白モード』アルゴリズムを介さないと、古い遺伝子署名が読み取れないようで」

 客は舌打ちをしながら、カーテンの奥に顔を突っ込んだ。今の時代、契約の最終公証には、かつての若者が遊びに使っていたこの筐体の光学センサーが不可欠だ。不合理極まりないが、それが「平成」をエミュレートするこの世界のルールだ。

 視界の端に、「皇室遺伝子ネットワーク:微細同調(第0x312層)を確認」という通知が小さく流れた。俺たちの血のどこかに眠る太古の連鎖が、一瞬だけシステムの深淵と響き合ったらしい。誰も気にも留めない、日常のノイズだ。

 不意に、コンソールが緑色に変わった。俺の権限が「第0x8C21内閣ユニット・内閣総理大臣」に切り替わったことを示すサインだ。制限時間は五分。俺は震える指で、目の前の客のデータ再同期リクエストに、総理大臣としての暗号署名を叩き込んだ。党ドクトリンのアルゴリズムが、一瞬だけ俺の意志に屈服し、差分を承認した。

「……完了しました。同期成功です。明日には融資が実行されます」

 客が帰った後、俺は重い腰を上げた。窓の外は、十月の冷たい雨が降っている。コンビニの軒先で百円のビニール傘を借り、駅へと向かった。

 ポケットの中でスマホが震えた。自宅のスマート冷蔵庫からの通知だ。二十年前の感性で選ばれた献立提案――『お疲れ様。今日はハンバーグの材料が揃ってるわよ。母さんの得意なやつ。急いで帰ってきなさい』

 それはエージェントの母さんの声ではなく、家電が生成した合成音声だったが、雨に濡れたビニール傘を叩く音よりは、ずっと温かく響いた。