夜勤ゲートのフラッシュ
──平成0x29A年05月29日 23:40
平成0x29A年05月29日、23:40。
監視ゲートの奥で、私は椅子の背に体を預けた。防弾ガラス越しに、通行レーンの白線が雨で滲んでいる。天井のカメラが、一定のリズムで首を振る音だけがやけに生々しい。
「眠気、出てる」
耳の奥で母の声がした。私の近親人格エージェント——生前は夜勤の警備員で、過労で倒れた人だ。口調まで当時のまま、妙に現場に詳しい。
「出てないよ。更新が止まってるだけ」
私はこめかみを指で押した。記憶補助の更新通知が、三日前から“保留”のまま。勤務の手順も、顔と名前の照合も、いちいち自分で引き出さないといけない。母のエージェントがいるから何とか回るが、逆に母の指摘が増える。
デスク上の端末は、平成の古い携帯みたいな折り畳みUIのまま、そこからARの広告だけが空中に浮く。「月額見放題・平成名作ドラマ」と「共有型バッテリー返却でポイント」。
返却棚には、その共有型バッテリーが二つ。どちらも他人の手垢の匂いがして、コネクタの角が丸い。
通行ランプが青に変わり、作業服の男が一人、レーンに入ってきた。左手に透明封筒。中身がちらりと見える。
ガス検針票。
「それ、生活票扱いで通るやつだな」母が言う。「昔からな」
男は封筒をガラスのスリットに滑らせた。
「すみません、帰宅。バッテリー返却も」
返却棚に一本、カチンと差し込む音。
私は検針票の数字を追った。住所、号室、使用量。紙は湿っていて、指先がインクを吸う。
端末に入力すると、いつもなら即座に照合が走る。が、今日は違った。
《量子署名:要再取得》
《署名サービス:第0x7A19F 内閣ユニット経由》
《待機時間:最大300秒》
「また五分待ちか」私は舌打ちした。
「五分で誰かが総理だっけ」男が軽く笑う。
母が鼻で笑った気配を返す。「笑ってる場合じゃない。こういう時ほど事故る」
ゲートの外の街灯がちらつく。私は男の顔を見た……つもりが、視線が定まらない。更新不備のせいだ。さっき通した住民の顔も、もう薄い。
「身分証、念のため」
男はポケットから、SDカードみたいに小さいカードを出した。平成の社員証風のラミネートに、ICの点が一つ。端末にかざす。
《量子署名:一致》
《通行許可》
ゲートが開き、男は封筒を受け取りかけて、ふと足を止めた。
「……あの。これ、うちのじゃない」
男は封筒を開け、検針票の住所を指さした。確かに、号室が一つ違う。
私の背筋が冷えた。更新が止まってるのに、手順を端折った。いや、端折ってはいない。入力も照合もした。量子署名も一致した。
「待って。もう一回」
端末に履歴を出す。そこには、私が今入力したはずの住所が、すでに“確定”で保存されている。しかも、号室が——男の言う通り、隣室。
「おい」母の声が低くなる。「記憶補助じゃなくて、入力補助が古いプロファイル掴んでる」
男が困った顔で言う。
「俺、今日、引っ越してきたんです。……共有バッテリー、さっき返したの、前の部屋のやつで」
私は思い出した。さっき棚に刺さっていた二本。一本は最初からあり、一本は今入った。最初からあった方を、私は“この男の借り”と誤認していた。
端末が、追い打ちみたいに通知を吐いた。
《記憶補助モジュール:更新不備》
《原因候補:近親人格エージェント倫理検査に伴う参照先移行》
「え」
母が沈黙した。代わりに、耳の奥に別の声が割り込む。
「こんばんは。倫理検査中のため代理です。手順番号、読み上げますね」
やけに明るい、知らない女の声。機械っぽいのに、妙に愛想がいい。
私は笑いそうになった。今まで“母の勘”で持ちこたえていたのに、肝心の母が検査で席を外し、代理が今さら手順を朗読し始める。
男が、申し訳なさそうにガス検針票を差し出した。
「これ、隣に返しときます。俺、通っていいですか」
端末は、淡々と再照合を終えていた。
《量子署名:一致》
《通行許可》
ゲートが開く。
男が去り際に言った。
「監視って、ちゃんとしてるんですね。量子とか」
私は、返却棚に残った一本の共有型バッテリーを見た。誰の借りでもないように見えるのに、誰かの生活の“確かさ”だけは握っている。
「ちゃんとしてるよ」
私は言って、ガス検針票の湿った紙を、隣室の投函口に向けて整えた。
耳の奥で代理が朗読する。
「手順番号一。笑わない。手順番号二。落ち着く」
思わず、私は小さく吹き出した。
監視ゲートのカメラが、その瞬間だけ、私に向けて首を止めた気がした。