六番線の遺伝子
──平成0x29A年 日時不明
ホームの発車メロディが『残酷な天使のテーゼ』のオルゴール版に変わったのは先月からで、あたしはまだ慣れない。
イヤホンの片耳からは着メロみたいな電子音が鳴って、叔母さんの声が割り込んでくる。
『葉月、傘。置いてきたでしょ』
「……わかってる」
『わかってて置いてくるのが問題なの。お母さんもそうだった』
叔母さん——正確には、三年前に亡くなった叔母の片桐洋子。あたしのエージェント。生前から口うるさかったけど、死んでからさらに磨きがかかった気がする。
あたしは駅の自動改札をiモード端末でタッチして通過した。画面にはAR天気予報がぺたぺた貼りついていて、「午後から降水確率82%」が改札機の上で踊っている。傘、やっぱり要ったか。
六番線。各停。座席に座ると、膝の上でノートパソコンを開く。ThinkPadの黒い筐体に、職場で貼られたプリキュアのシールが三枚。剥がしたいけど、剥がすと園児たちが泣く。
あたしは保育士だ。公設のこども園「たんぽぽ」、園児十九名。平日は朝八時から夕方六時、積み木とお遊戯と鼻水の海を泳いでいる。
ThinkPadを開いたのは仕事じゃない。今朝届いた通知のせいだ。
〈第0x7A1F2内閣ユニット 閣議招集通知〉
〈片桐葉月殿 本日14:32:00より300秒間、内閣総理大臣に任命〉
十四時三十二分。ちょうどお昼寝の時間だ。園児たちがトトロの布団カバーにくるまって寝静まる頃、あたしは五分だけ総理大臣になる。
二回目だった。前回は去年の夏で、承認対象は水道管の口径規格変更だった。叔母さんが『賛成でいいんじゃない、水道のことなんてわからないし』と言い、あたしもそうだなと思ってボタンを押した。三百秒のうち二百八十秒は余った。
今回の差分リクエストを開く。
〈皇室遺伝子ネットワーク 第7次間引き処理の承認要求〉
〈対象:発現閾値0.0003%未満の末端ノード 推定4,200万件〉
四千二百万。人口のざっと四分の一。
『葉月、これ』
叔母さんの声が低くなった。
「うん。見てる」
『あんたのクラスの子、何人か引っかかるんじゃないの』
そうかもしれない。園児たちの遺伝子プロファイルなんて見たことないけど、薄く広く散らばった皇室の欠片は、もう誰の中にあっても不思議じゃない。間引きといっても物理的な何かじゃなく、ネットワーク上の帰属フラグを消すだけだ。誰も痛まない。誰も気づかない。
たぶん。
『党ドクトリンの署名鍵、最近はもう形だけよね。去年あたしが検算したとき、三十分で解けたわ』
「叔母さん、それ違法じゃないの」
『死人を裁く法律はないの』
電車が鉄橋を渡る。川面に朝日が散って、窓ガラスに反射したAR広告——『写ルンです 新色登場』——が一瞬だけ虹みたいに光った。
あたしはリクエストの詳細を閉じて、代わりに園の連絡帳アプリを開いた。今日の給食はカレー。園児の安藤くんはニンジン抜き。佐々木さんはアレルギー対応で別メニュー。
十四時三十二分になったら、あたしはたぶんまた叔母さんに訊く。
どうする? って。
でも今は、もう少しだけ、六番線の揺れに身を任せていたい。
プリキュアのシールに指が触れた。端っこが少しめくれている。
剥がさない。まだ、剥がさない。