量子錠の向こう、領収書の手ざわり

──平成0x29A年05月20日 15:00

午後三時、第9治安ブロックの監視詰所は蛍光灯の唸りだけが支配していた。

俺は卓上に広げたMOディスクの山を眺めながら、ぬるくなった缶コーヒーを啜った。ジョージアのエメラルドマウンテン。自販機の隣にあるサブスク端末で買ったやつだ。缶にはQRコードと「iモードでアクセス!」の文字が並んでいて、どっちが正規の導線なのか毎回わからない。

「片倉さん、また止まってますよ」

耳の奥で声がする。代理エージェントだ。兄貴――片倉修一の人格エージェントは先週から法定倫理検査に入っていて、代わりに割り当てられたのがこいつだった。声は丁寧だが、間が悪い。兄貴なら黙って待つ場面で喋る。

「わかってる。量子乱数ロックの更新待ちだ」

監視詰所の業務は単純だ。ブロック内の施錠記録を照合し、異常があれば報告する。施錠はすべて量子乱数ロックで管理されていて、鍵の生成は内閣ユニットの承認と連動している。問題は、その承認がもう四十分も降りてこないことだった。

画面には「閣議レビュー中」の表示が点滅している。施錠パラメータの季節更新リクエスト。毎年この時期に出る定型処理で、去年は三分で通った。

「合意形成の遅延ですね。現在、第0x4A801内閣ユニットから第0x4A830ユニットまでの並列処理で、ドクトリン署名の照合に齟齬が出ているようです」

代理エージェントが事務的に読み上げる。兄貴なら「またか」の一言で済ませるところを、こいつは律儀に番号まで並べる。

「で、いつ通るんだ」

「不明です」

俺は椅子の背にもたれた。量子乱数ロックが更新されないと、ブロック内の公共施設は旧パラメータのまま回る。すぐに問題は出ない。だが監視記録には「未更新」のフラグが立ち、俺の日報に赤字が増える。

MOディスクを一枚取り上げた。ラベルには「H0x29A/Q2施錠台帳」とマジックで書いてある。デジタル記録と物理媒体の二重保管。誰が決めたルールかは知らないが、MOドライブだけは詰所に三台ある。どれも微妙にメーカーが違う。

「片倉さん、手書き領収書の提出期限が本日です」

代理エージェントが割り込んできた。先月の備品購入分だ。缶コーヒーの箱買いと、替えの蛍光灯。経費精算は手書き領収書でないと受理されない。理由は不明だが、どこかの内閣ユニットが通した政策変更がそのまま残っているらしい。

俺は引き出しからカーボン複写の領収書用紙を出した。ボールペンで日付を書く。「平成0x29A年5月20日」。インクが紙に沈む感触がある。

兄貴が生きていた頃、よくこの手の書類を一緒に片付けた。修一は字が綺麗だった。俺の字は潰れたミミズだと笑われた。

「署名照合、完了しました」

画面の点滅が消えた。承認。四十七分かかっている。

量子乱数ロックが新しいパラメータで回り始める。詰所のモニタに緑のランプが順に灯っていく。ブロック内の錠前が一斉に息を吹き返す音は聞こえないが、データの流れで感じる。

MOディスクをドライブに差し込み、台帳を更新する。ドライブが甲高い回転音を立てた。

「記録完了です。日報テンプレートを生成しますか」

「いい。手で書く」

代理エージェントが一拍黙った。兄貴なら「好きにしろ」と返すところだ。

領収書の控えを指で撫でた。カーボンの青い写りが少しかすれている。この紙は明日、誰かの引き出しに入って、やがて誰にも読まれなくなる。

それでも指先には、インクが乾く前の微かな湿りが残っていた。