観光案内のイヤフォンから聴こえる、誰にも届かない周波数

──平成0x29A年11月17日 12:20

 昼の光が案内カウンターのアクリル板に反射して、視界の左端がずっと白い。

 私はその白さの中で、来訪者リストのスクロールを続けている。第36観光ブロック、旧称・飛騨高山エリア。十一月の紅葉シーズンで、朝から予約の照合が途切れない。

「叔父さん、次の人、滞在申請のカテゴリが空欄なんだけど」

 右耳のイヤフォンから、すこし遅れて声が返る。

『空欄は自動で観光に振られるよ。ただ、署名欄を先に見な。最近ちょっと変なのが混ざってる』

 叔父——片桐義男。享年五十三、膵臓がん。母の弟で、生前は旅行雑誌の編集者だった。人格移植されてからも、やたら旅程の段取りにうるさい。でもこの仕事には向いている。

 署名欄を開くと、党ドクトリンの暗号署名がべったり貼られている。来訪許可の正規ルート。ただ、ハッシュの末尾四桁が——。

「また同じパターンだ」

『だろう。今月に入って三件目。あれ、もう隠す気ないんだよ、向こうも』

 向こう、というのが誰を指すのか、叔父さんも私もわかっていない。ドクトリンのアルゴリズムが半ば公然と解読されている、というのは現場では周知の事実だった。来訪許可の署名に使われている鍵の一部が、先月からネットの掲示板に——いや、正確にはiモード風のフォーラムに平文で転がっている。

 カウンターの向こうで、年配の来訪者が待っている。手元にはポケベルを模した端末。画面に数字の羅列。あれで滞在先の旅館から受信確認を取るらしい。カウンター横のAR広告が、その人の視界をまたいで「飛騨牛ステーキ御膳 期間限定」の半透明パネルを空中に浮かべている。来訪者は慣れた手つきでパネルをくぐるように一歩前に出た。

「お待たせしました。滞在許可、照合しますね」

 私は端末で署名を検証にかける。ブロックチェーン投票の履歴と照合——来訪許可は、この観光ブロックの住民投票で季節ごとに受入枠が決まる。投票結果のチェーンを辿れば、今期の枠にはまだ余裕がある。署名は通る。通ってしまう。

 末尾四桁が露出パターンと一致していても、検証系は「有効」を返す。

『通ったね』と叔父さんが言う。『まあ、通るんだよ。鍵が割れてても、検証のほうが追いついてないから。いや——追いつかせる気がないのかもな』

 私は来訪者に許可証をプリントアウトして渡した。感熱紙の匂い。来訪者は軽く頭を下げて、ポケベル端末をコートのポケットにしまった。

 次の来訪者が来るまでの数分、私はカウンター下の棚からウォークマンを取り出す。カセットテープ式の、銀色の旧型。昼休憩の残り時間に聴く用。テープには叔父さんが生前に編集した旅番組のラジオ録音が入っていて、知らない温泉地の紹介が延々と流れる。右耳は叔父さんのエージェント回線、左耳はウォークマン。二つの音が重なると、どちらが今の声でどちらが昔の声なのか、ときどきわからなくなる。

『飛騨は関係ないけどさ、次の来訪者も同じパターンだと思うよ』

「うん。たぶんね」

『どうする?』

「どうもしない。通るものは通すよ」

 ウォークマンの中で、三十年前に死んだアナウンサーが「本日の最高気温は十八度」と言っている。カウンターの温度計は十一度を示していた。

 AR広告が新しい飛騨牛のパネルに切り替わる。来訪者の列がまた一人、伸びた。

 私は再生ボタンを止めて、ウォークマンを棚に戻し、「いらっしゃいませ」と言った。署名は今日も、たぶん全部通る。