カセットの端子に、閣議決定を吹きかけて

──平成0x29A年02月23日 09:40

平成0x29A年02月23日、午前09時40分。

「慎くん、また猫背になってる。腰のナノ医療パッチ、ちゃんと貼り替えた? 24時間で成分が揮発する設定なんだから」

網膜の端で、恵のホログラムが小言を言ってくる。亡くなってから五年、彼女の人格エージェントはますます生前の口うるささを増していた。僕は第28居住ブロックの古い廊下を歩きながら、作業着の腰をさすった。

「わかってるよ。今日は点検箇所が多いんだ、静かにしてくれ」
「はいはい。でも、その『平成04年製』の団地、配電盤の量子署名がガタガタよ。気をつけて」

目的の302号室のインターホンを押すと、電子音ではなく「ピンポーン」という野太い音が響いた。中から出てきたのは、遺伝子ネットワークの恩恵か、妙にツヤの良い肌をした老人だ。彼は僕の顔を見るなり、部屋の奥を指差した。

「おい、インフラ屋。早くこれを見てくれ。大事な『儀式』ができないんだ」

六畳一間の中心には、不釣り合いに巨大なブラウン管テレビが鎮座していた。その下には、灰色で角の丸い長方形の筐体――スーパーファミコン。平成初期の文化遺物だ。エミュレートされた「平成」を生きる僕らにとっても、それはもはや骨董品の類だった。

「量子署名が通らねえんだ。カセットを差し込んでも、画面が砂嵐になっちまう」

老人が嘆く。見れば、テレビ画面の隅には『第402ヘゲモニー期・党ドクトリンとの不整合:エラーコード0xAF10』という透過文字が浮いていた。本来なら娯楽用デバイスに党のアルゴリズムが干渉することはない。だが、このブロックの統治を回している数十万の内閣ユニットのどれかが、老人のセーブデータを「現行制度との差分断片」として誤認識してしまったらしい。

僕は溜息をつき、スーファミの端子にナノマシンの洗浄スプレーを吹きかけた。
「おじいさん、これ、ただの接触不良じゃないですよ。上の方がバグってるんだ」

その時、視界が真っ赤に点滅した。網膜に巨大な通知が躍る。

【緊急選出:あなたは今後5分間、第0x1B82内閣ユニットの内閣総理大臣を務めます。現在、閣議決定待機中の案件が12,403件あります】

「あら、おめでとう。総理大臣じゃない」
恵が皮肉っぽく拍手する。僕は作業を中断し、虚空に指を走らせた。エージェントが優先順位を整理するが、どれもこれも「道路のひび割れ承認」や「合成食糧の塩分濃度変更」といったゴミのようなリクエストばかりだ。

そのリストの最下層に、見慣れたエラーコードを見つけた。
『302号室・特定遊戯機におけるメモリ差分の恒久承認要求』

「恵、これだ。署名アルゴリズムを書き換えろ。このスーファミのセーブデータを『国家機密』として暗号化署名する」
「慎くん、それ職権乱用よ。党ドクトリンが黙ってないわ」
「いいんだよ。あと3分で僕はただの保守員に戻る。署名さえ通れば、この爺さんのゲームは動く」

僕は指先で量子署名のトリガーを引いた。暗号化された連鎖システムが火花を散らし、老人のスーファミを「統治システムの一部」として承認した。ブラウン管の砂嵐が消え、美しいドット絵のタイトル画面が映し出される。

「おお! 直った、直ったぞ!」
老人は子供のようにはしゃぎ、コントローラーを握りしめた。「やっぱりカセットの端子をフーフーするのが一番効くんだな」

僕は苦笑いしながら、総理大臣の権限が剥奪されるのを見届けた。たった300秒の独裁政権が終わった。

「……ねえ、慎くん。画面、よく見て」
恵の声が少し引きつっている。

老人が動かす勇者キャラクターが、王様に話しかけていた。本来なら「魔王を倒しなさい」と言うはずの王様の台詞ウィンドウには、党ドクトリンのアルゴリズムが無理やりねじ込んだテキストが流れていた。

『閣議決定:平成0x29A年度より、第28ブロックの住民税を15%引き上げる。この差分は量子的に確定しており、回避は不可能である』

「いいゲームだ、これだよ、この手応えだ」
老人は増税の宣告を「重要なクエストのヒント」だと勘違いして、嬉しそうにメモを取っている。

僕は何も言わず、腰のナノ医療パッチを貼り替えるために部屋を後にした。外は、相変わらず平成の空気が澱んでいた。