磁気と朱肉のデッドヒート
──平成0x29A年05月29日 21:00
平成0x29A年5月29日、21時。蒸し暑い夜だ。配送車のエアコンは「平成初期設定」のままで、妙にカビ臭い風を吹き付けてくる。
「佐野様。前方30メートル、サブスクリプション未決済エリアです。通行には追加料金、または迂回が必要です」
耳元で、聞き慣れない女の声がした。標準型代理エージェント「ユキ」。本来のパートナーである姉の結衣は、今日から三日間の法定倫理検査に入っている。姉なら「あー、また運営の集金モード入ったね。裏道行こうよ」と笑うところだが、ユキはマニュアル通りに事実を告げるだけだ。血の繋がらないエージェントは、どうにも居心地が悪い。
「いいよ、もう。歩いて行く」
私は軽トラを停め、荷台から小さな小包を取り出した。中身は「物理印鑑」。今どきそんなものを欲しがるのは、メタバース広場の隅っこで隠居しているような偏屈な老人くらいだ。宛先は、AR広告がバグって90年代の消費者金融の看板が重なり合っている、古ぼけたアパートだった。
階段を上ろうとして、足が止まった。一段目のステップに赤いホログラムが浮き出ている。【階段利用サブスク:期限切れ】。冗談じゃない。玄関先まで届けるのが仕事なのに、重力にまで課金が必要なのか。
その時、視界の端に「金色の通知」が割り込んできた。心拍数が上がる。これだ。ランダムに選出される、5分間だけの特権。第0x29A105内閣ユニット、内閣総理大臣の権限が私に回ってきたのだ。
「閣議決定リクエストを受信しました。処理してください」とユキが淡々と促す。
網膜に映し出されたのは、無数の政策変更リクエストの断片。その中に、今の私にぴったりのものがあった。『公共住宅における移動インフラの無償化アルゴリズムの実装』。これに署名すれば、このクソ高い階段を無料で上れる。
だが、その隣にあるリクエストが目に留まった。『公衆電話網の維持およびテレホンカードの磁気再書き込み機能の復活』。党ドクトリンの深層から湧き出たような、時代錯誤な差分データ。なぜか、さっき見た受取人の老人の顔が浮かんだ。彼はさっきから、アパートの窓際で、使えもしないテレホンカードを指で弄んでいたのだ。
「佐野様、残り3分です。ドクトリンに沿った署名を選択してください」
私は迷った末、自分の利便性を捨てて『テレホンカード』の方に暗号署名を叩き込んだ。総理としての最初で最後の仕事だ。階段の利用料は、私個人の電子マネーで、今月分の昼飯代を削って決済した。
三階の角部屋。ドアを叩くと、出てきた老人は不機嫌そうに小包をひったくった。
「遅いよ。ハンコ、どこに押せばいいんだ」
私は受領用の感圧タブレットを差し出す。老人は懐から、使い込まれた黒水牛の印鑑を取り出した。朱肉はカラカラに乾いていたが、老人は構わずタブレットの画面にそれを力任せに押し付けた。
ピッと電子音が鳴り、配送完了のログが流れる。老人の部屋の奥では、古い公衆電話のオブジェが、私の署名のせいか一瞬だけ緑色に輝いた気がした。
「……あんた、変なことに権限使ったな」
老人がボソッと言った。こいつも「党」の末端か何かで、アルゴリズムの動きが見えているのかもしれない。
「おかげで、階段代で今夜はカップ麺すら食えませんよ」
私が愚痴ると、老人は鼻で笑って、使い切った穴だらけのテレホンカードを一枚手渡してきた。そこには、かつてのアイドルの掠れた笑顔が描かれていた。
「それ、明日になれば通話料がチャージされるはずだ。5分だけな」
アパートを降りると、総理の任期が終わっていた。ユキが「不合理な選択でした」と冷たく評価を下す。私は軽トラの運転席で、姉の不在を改めて噛み締めた。姉ならきっと、「そのカード、メルカリで売れるかな?」なんて、もっとマシな冗談を言ってくれたはずだ。