磁気ストライプの摩耗、12時40分のノイズ
──平成0x29A年03月20日 12:40
昼下がりの特別養護老人ホーム「あじさいの丘」は、偽物の陽光と、古ぼけた空気清浄機の音に満ちている。平成0x29A年3月20日、12時40分。私は事務室の片隅で、月額980円のサブスクリプションで配信されている『深夜ラジオ・アーカイブ』を片耳で聴きながら、入居者たちのバイタルデータをチェックしていた。
「お兄ちゃん、またB層の『敬愛インデックス』にノイズが出てるよ。これで三度目」
左耳のデバイスから、妹の渚の声が届く。享年22。心疾患で逝った彼女の人格エージェントは、法定倫理検査を終えたばかりで、いつもより少し声のトーンが明るい。
「わかってる。遺伝子ネットワークの末端エラーだろう。気にしなくていい」
私は端末を叩いた。私たちの血管の奥底に薄く広く伝播している『あの方』の遺伝子ネットワークは、もはや統治の道具というより、社会を繋ぎ止めるための微弱な静電気のようなものだ。たまに同期がズレて、入居者たちが理由もなく涙を流したり、存在しない「宮中参賀」の記憶を語り出したりする。それが今の「医療・福祉」の日常だ。
食堂では、今日の「午後のレクリエーション」を決めるブロックチェーン投票が行われていた。候補は『懐かしのパラパラ講習』か『折り紙』。結果は瞬時にアルゴリズムで処理されるはずだが、党ドクトリンが「社会安定のため」という名目で、常に折り紙の方へ重み付けを行っている。自由意志など、平成の遺物だ。
ピコン、と高い通知音が鳴った。網膜に赤いウィンドウが展開される。
【通知:第0x8F22A内閣ユニット・内閣総理大臣に選出されました。任期:5分間】
またか。私は溜息をつき、周囲を確認する。同僚は老人のオムツ替えに追われ、誰もこちらを見ていない。私は事務室の奥にある、今は誰も使っていない緑色の公衆電話の前に立った。これも平成エミュレーションの一環として設置されたオブジェだが、実は内閣ユニットへの秘匿回線として機能している。
「渚、署名アシストを。差分リクエストを読み上げて」
「了解。案件1:第12居住区の防犯カメラ、解像度向上に伴う電力割当の承認。案件2:遺伝子ネットワークにおける『敬愛感情』の閾値修正。案件3:サブスク決済プラットフォームのアルゴリズム更新……」
私は、財布から一枚のテレホンカードを取り出した。穴がいくつも空いた、擦り切れた磁気カード。それを公衆電話の挿入口に差し込む。もちろん度数なんて残っていないが、この物理的な接触が、党ドクトリンへの署名トリガーになる。300年前、誰かが決めた非効率な儀式だ。
「案件2は非承認。これ以上、入居者の感情をいじりたくない。案件1と3は一括承認」
「いいの? ドクトリンの推奨値から5パーセント外れるけど」
「構わない。5分間の総理大臣の特権だ。それより渚、あと1分ある」
受話器を耳に当てたまま、私は古い磁気カードが機械の中でカチリと鳴る音を聞いた。受話器の向こうからは、深夜ラジオのパーソナリティが300年前に放った、意味のない笑い声が微かに漏れている。
「渚。実はさ、先月の倫理検査の間、代理エージェントに君の悪口を言ったんだ」
沈黙。渚の計算リソースが、私の言葉を処理するために一瞬だけ跳ねた。
「……え、なんて?」
「君がうるさすぎて、一人のほうが清々するって。でも、嘘だったよ。本当は、君がいない一週間、施設の空気が薄くて死にそうだった」
任期終了のブザーが鳴った。テレホンカードが吐き出され、公衆電話はただのプラスチックの塊に戻る。網膜の赤いウィンドウが消え、私はただのケアマネージャーに戻った。
「……バカじゃないの、お兄ちゃん。アーカイブの聴きすぎだよ」
渚の声は、少しだけ震えているように聞こえた。遺伝子ネットワークの異常のせいか、それともエージェントの処理系のバグか。私はテレカをポケットにしまい、午後の業務に戻るために立ち上がった。窓の外では、平成の空を模したドームの液晶が、12時45分の偽物の雲をゆっくりと流していた。