触れない記憶、折れた約束
──平成0x29A年08月06日 19:40
俺の仕事は、街中に張り巡らされたユビキタスセンサー網の物理メンテナンスだ。第8インフラブロックの保守現場、古いアーケード街の裏路地。午後七時を回っても蒸し暑い。
今日の現場は飲食店の裏口付近。センサーノードが三基、同時に応答不良を起こしている。触覚フィードバック端末を腰のベルトから外し、ノード筐体に押し当てる。微細な振動が指先に返ってくる。電源系統は生きている。通信モジュールの劣化か。
「圭吾、その筐体は第四世代だから、電池ボックスが二段になってるはずだ」
声が耳の奥で響く。兄貴だ。兄・柏木達也、享年三十五、配線作業中の感電事故死。生前は俺にこの仕事を教えてくれた。死後もエージェントとして、現場で助言をくれる。
筐体を開けると、案の定、乾電池が六本、錆びついて膨らんでいた。予備の電池は工具箱にある。だが、問題は別のところにあった。
「兄貴、記憶補助の更新、いつだっけ」
「……ああ? 何の話だ」
兄貴の声が妙に間延びしている。記憶補助システムの更新は三ヶ月ごと。エージェントが現場の履歴や手順を正確に保持するための必須メンテナンスだ。俺は先月、更新通知を無視した。忙しかったから。
端末を操作して、エージェントのログを確認する。兄貴の記憶領域に、欠損がある。過去二ヶ月分の現場データが、ところどころ抜け落ちている。
「まあ、大した問題じゃねえよ。電池交換して、モジュール再起動すりゃ直る」
兄貴の口調が、やけに楽観的だ。いつもならもっと細かく指摘してくるのに。
工具箱から新しい単三電池を六本取り出す。箱の底には、使い古した乾電池の山。いつか廃棄センターに持ち込もうと思いながら、溜め込んでいた。
ノードの電池を交換し、蓋を閉める。触覚フィードバック端末でテスト信号を送ると、正常な応答が返ってきた。残りの二基も同じ手順で済ませる。
アーケードの入口に戻ると、折込チラシが風で舞っていた。「懐かしの平成グルメフェア」と大きく書かれている。タピオカドリンクとナポリタンが並んでいる。俺には、どっちも同じ時代の食べ物に見える。
端末に作業完了報告を入力しながら、兄貴に尋ねる。
「なあ、兄貴。前に教えてくれた、センサー配置の最適化の話、覚えてる?」
「……ああ、たぶん、な」
「たぶん?」
「悪いな、圭吾。最近ちょっと、記憶が曖昧でよ」
兄貴の声が、ほんの少し遠い。
更新通知は、今も端末の隅で点滅している。明日こそ対応しよう、と思う。でも、たぶん、また忘れる。
乾電池の山を眺めながら、俺はふと思った。更新を怠り続けたら、兄貴はどこまで薄くなるんだろう。いつか、ただの定型文しか返さなくなるのかもしれない。
それでも、俺は今日も電池を交換する。センサーは直る。兄貴の記憶は、ゆっくりと消える。
「また明日な、圭吾」
「ああ、また明日」
返事をしながら、俺は端末の通知を、またひとつ、無視した。