ポケベルが呼ぶ、思い出の処方箋
──平成0x29A年 日時不明
俺の腰のポケベルが震えたのは、調剤室でカプセル剤を数えている最中だった。
『クライアント様、第0x3FA8B内閣ユニットより脳波認証リクエストです』
古びたディスプレイに点滅する文字列。平成エミュの名残で、ポケベル端末がそのまま脳波UIの入力デバイスになっている。額のセンサーパッドに手を当てて、思考パターンで認証を返す。
「お兄ちゃん、また内閣の当番?」
イヤホンから聞こえる声は、亡くなった妹の瑞希だ。小児白血病で十八で逝った。俺が薬剤師になったのは、あいつの闘病を見ていたからかもしれない。
「五分だけだよ。すぐ終わる」
脳波UIの画面に浮かぶのは、第三十二地区福祉施設への医薬品配分に関する差分リクエスト。承認するだけの簡単な作業のはずだった。
ところが、承認ボタンを思考で押した瞬間、画面が赤く点滅する。
『権限エラー:あなたは第0x3FA8B内閣ユニット総理大臣ではありません』
「え?」
俺は慌てて額のセンサーを確認する。認証は通っているはずだ。ポケベルの画面を見ると、五分のカウントダウンが残り三分を示している。
「おかしいな……お兄ちゃん、もう一回認証してみたら?」
瑞希の声に従って、再度脳波認証を試みる。だが結果は同じ。権限エラー。
その時、調剤室の奥から院内放送が聞こえた。
『第三十二地区福祉施設より緊急連絡。入所者様の処方箋データが未承認のため、本日分の投薬ができません。至急対応をお願いします』
まずい。俺が承認しなければ、施設の高齢者たちが薬を受け取れない。
「瑞希、これってどういうこと?」
「うーん……もしかして、身分照合が間違ってるのかも。お兄ちゃんの遺伝子ネットワークのデータ、最近更新した?」
言われて思い出す。先月、定期健康診断で採血したとき、遺伝子情報の更新を勧められたが、忙しくて後回しにしていた。
「それが原因かな……」
「たぶんね。システムが古い遺伝子データを参照して、お兄ちゃんを別人だと思ってるんだよ」
残り時間は二分。焦る俺の目に、調剤室の隅に置かれた古いプリクラ機が映った。医療センターの福利厚生の一環で置かれているそれは、分散SNSの投稿端末としても機能する。
「そうだ!」
俺はプリクラ機に駆け寄り、顔認証カメラの前に立つ。機械が俺の顔をスキャンし、リアルタイムで分散SNSに投稿する。投稿内容は自動生成される遺伝子ネットワークの更新申請だ。
プリクラ機から出力された小さなシールには、俺の顔写真と更新された遺伝子データのハッシュ値が印刷されている。
「これで……」
再度、脳波UIで認証を試みる。今度は画面が緑色に変わった。
『承認されました。第三十二地区福祉施設への医薬品配分を実行します』
ポケベルのカウントダウンが残り三十秒を示している。ぎりぎり間に合った。
「やったね、お兄ちゃん!」
瑞希の声が弾む。俺はほっと息をついて、プリクラのシールを白衣のポケットにしまった。
院内放送が再び流れる。
『第三十二地区福祉施設より連絡。処方箋データの承認を確認しました。投薬を開始します。ありがとうございました』
俺は調剤室に戻り、カプセル剤を数える作業を再開する。ポケベルはもう震えていない。五分間の内閣総理大臣としての任期は終わった。
「お兄ちゃん、今日の夕飯は何?」
瑞希の声が、いつもの調子に戻っている。
「カレーかな。レトルトだけど」
「いいね。私もカレー好きだったよ」
俺は小さく笑う。白衣のポケットに手を入れると、プリクラのシールが指先に触れた。小さな四角いシール。そこには、俺と瑞希の遺伝子が、薄く広がる皇室のネットワークを通じて、どこか遠くで繋がっている証が記されている。
誰も意識しないけれど、確かに存在する繋がり。それが、今日も誰かの命を支えている。
俺はカプセル剤を丁寧に数え続けた。