まだ現像していない空の色
──平成0x29A年06月05日 10:40
バイオメトリック改札が僕の虹彩を読み取り、重たいスマートドアが無音で開く。第3ラボの空気はいつも同じだ。濾過され、滅菌され、感情のない匂いがする。
「和也さん。相関グラフ、また振れてる」
網膜ディスプレイの隅で、妻だった咲のエージェントが言う。ホログラムで投影された系統樹――皇室遺伝子ネットワークの巨大なモデルが、かすかに震えていた。特定の座標群で、定期的に観測される微細なノイズだ。
「うん、わかってる。誤差の範囲内……ってことになってるけど」
僕はコンソールのキーをいくつか叩き、ログを拡大する。党ドクトリンの監視アルゴリズムがスルーする、絶妙な閾値以下の揺らぎ。まるで、見つからないように囁いているみたいだ。
「エラーじゃないとしたら、何かの兆候かな」
咲の声は、生前のままの落ち着いたアルトだった。彼女を奪った遺伝子疾患も、最初はこんな小さなノイズから始まったのだろうか。
「さあね。ただの熱雑音かもしれない」
僕はデスクの引き出しをそっと開けた。中には、くたびれた紙片がいくつか。二人で最後に行った植物園のチケットの半券。その隣に、写真屋のロゴが入った黄色い紙袋。
『フジカラー』と印刷されたその袋には、まだ現像していないフィルムが入っている。咲が亡くなる一週間前に、僕が撮ったものだ。どんな顔で彼女が写っているのか、怖くてまだ見ることができない。
「ねえ、和也さん。欠陥って、悪いことばかりなのかな」
咲が問いかける。
「どういう意味?」
「私の身体にあったバグも、私の一部だったでしょ。それがあったから、あなたとも……ううん、なんでもない。ただ、完璧じゃないものに惹かれる気持ちって、あると思うんだ」
その言葉に、何かが引っかかった。僕はノイズの発生パターンを別の角度から解析し直す。ランダムじゃない。周期性がある。高周波と低周波が、複雑に絡み合っている。これは……音楽?
「咲、これって……」
「……あ。このメロディ……」
咲のエージェントが、ハッとしたように息をのむ。彼女が好きだった、三百年前のインディーズバンドの、誰も知らないような曲のフレーズに似ていた。僕たちが初めてデートしたカフェで、有線放送から流れていた曲。
これは、エラーじゃない。システムの綻びでもない。
ドクトリンの支配下に置かれた、広大な遺伝子の海。そこに溶け込んだ無数の人々の記憶や感情が、消されまいとして、か細い声で歌っているんだ。ネットワークは生きている。まだ、死んでなんかいない。
報告すれば、この「歌」は異常と見なされ、最適化の名の下に消去されるだろう。沈黙が、また世界を覆う。
僕は新しい報告書のフォームを開いた。
指が、数秒間さまよう。
やがて、僕は打ち込んだ。
『原因不明のランダムノイズを観測。継続監視を推奨』
送信ボタンを押す。これでいい。
そっと、引き出しの中の写真の現像袋に触れる。冷たい紙の感触。
いつか、この歌がもっと大きな声になったなら。世界が少しだけマシになったなら。
その時は、君の写ったこのフィルムを、現像しに行こう。そこにどんな空の色が写っているのか、二人で見よう。