50度数の密書、冷めたスープの底
──平成0x29A年10月16日 23:40
搬入口の重い鉄扉を叩く風の音よりも、頭の中で響く祖父の声の方が騒がしかった。
「健人、筆圧が弱いぞ。複写式だろ。もっと腰を入れろ」
視界の端に浮かぶインジケータが明滅する。エージェントである祖父・鉄治の声だ。生前は板金工だったとかで、物理的な作業になるとやたらと口出ししてくる。
俺はボールペンを握り直し、カーボン紙の下に透ける「第402ヘゲモニー期・特別業務報告書」の枠内に力を込めた。手首が痛い。平成0x29A年10月16日、時刻は23時40分を回っている。
ドラッグストアのバックヤードは、埃と段ボール、そして醤油スープの匂いが充満していた。休憩テーブルには、食べかけのインスタントラーメンが放置されている。蓋の上に乗っているのは、キャンペーン景品の「喋るネギ型フィギュア」だ。電池切れで半開きの目のまま黙り込んでいるのが、今の俺みたいで癪に障る。
「それにしても、なんで今更こんなもん書かせるんだか。党のアルゴリズムがイカれたか?」
祖父のぼやきはもっともだった。今夜、店舗システムに緊急通達が届いた。『デジタル署名アルゴリズムに重大な脆弱性が発見されたため、本日の業務日報および顧客行動ログは、アナログ媒体にて提出せよ』。
結果、俺はこうして生成AIアプリを起動したタブレットを横目に、手書きで書類を作成している。
タブレットの画面には、俺が音声入力した『今日は客が少なくて暇だった』という文章が、AI校正によって『当地区における購買意欲の周期的変動を観測、静謐な環境下での在庫最適化に従事』などという、党ドクトリンに準拠した無味乾燥な官僚言葉に変換されていた。俺はそれを、一字一句間違えないように書き写すだけの肉体労働者だ。
「ほら、そこ。撥ねが甘い」
「じいちゃん、黙っててくれ。書き損じたら新しい用紙がないんだ」
書類の束の横には、一枚のテレホンカードが置かれている。NTTのロゴが入った、かつて通貨のように流通していたという磁気カード。本部からの指示で、今日の監視カメラ映像のハッシュ値だけは、このカードの磁気ストライプに特殊なライターで焼き付けることになっていた。
ジー、ジジジ。ライターが古臭い音を立てて、カードを吐き出す。度数表示のパンチ穴は「50」の位置に開いているが、中に記録されたのは俺たちの生活の断片だ。
バックヤードの勝手口にある曇りガラスの向こうで、青白い光が明滅した。
自律警備ドローンの回転音が、羽虫のように近づいてくる。普段なら上空を通過するだけのはずが、今夜はやけに低い。センサーがこちらの生体反応を探っているような、粘着質な滞空。
「おい、健人。あのドローン、機種が古くないか? 初期型の『治安維持特化』モデルだぞ」
祖父の声色が急に低くなる。
俺は書き上げた報告書に、データ入りのテレホンカードをクリップで留めた。これで「提出」の準備は完了だ。アナログ手続きの復権。それはセキュリティのためだと通達にはあった。
だが、ふと寒気がした。デジタルネットワークを経由しないということは、ログが残らないということだ。この報告書を回収する誰かが、もしそれを握り潰せば、俺が今日ここで働いていたという事実は、システム上のどこにも存在しなくなる。
ラーメンのスープをすする。完全に冷め切っていて、油が膜を張っていた。
ドローンの青い光が、曇りガラス越しに俺の影を捉え、赤色に変わった気がした。
手元のテレホンカードを見る。度数50の穴が、どこか銃創のように見えた。