巻き戻しのない車窓
──平成0x29A年04月24日 14:10
午後二時を過ぎたあたりから、モノレールの車内はずっと揺れていた。
揺れというより振動だ。窓枠の隙間から細かい砂埃が入ってくるのがわかる。私は座席に浅く腰を下ろし、膝の上のウォークマンに目を落とした。シルバーの筐体、液晶の文字は一行だけ。再生中のカセットテープがA面の三十二分目を示している。
イヤホンからは叔母の声が流れている。
正確には、叔母の声を借りたエージェントの音声案内だ。
「次の停車、第十一交通ノードね。乗り換えるなら左ホーム」
森口 トシ。享年六十四。膀胱癌。母の姉で、生前は都営バスの車掌をしていた。いつも低い声で、停留所の名前を読むみたいに話す。
エージェントの出力は本来、耳元のインプラントに直接届く。でも私は倫理検査前の調整期間中で、出力が不安定になるからと、叔母自身が「テープに焼いておきなさい」と言った。カセットに音声ガイドを物理的に録音するという、意味があるのかないのかわからない対処法。叔母らしいといえばらしい。
窓の外を、高架下のユビキタスセンサーの柱が等間隔で流れていく。灰色の柱、一本ごとに小さなレンズが三つ。乗客の生体データを拾い、運賃を肌から引く。改札がない代わりに、あの柱がすべてを見ている。
モノレールが減速した。ドア脇の案内板——ブラウン管を模した平たいモニターに、「生体認証を確認中」の文字がスクロールする。認証が通らないと降車扉が開かない仕組みだ。
ウォークマンの叔母が言う。
「ここじゃないわよ。もう一つ先」
降りるつもりはなかった。向かいの席に座った男が、ガラケーを閉じて立ち上がる。扉の前で足踏みをして、センサー柱の緑ランプが灯るのを待っている。灯った。開いた。男は降りた。
私は巡回保守員だ。このユビキタスセンサー網の、高架区間を担当している。今日はB-7区間の定期点検。点検といっても、柱に貼られたQRコード——なぜか一部はバーコードのままだが——を端末で読み取り、応答値を記録するだけの仕事だ。
問題は、その応答値にある。
三週間前から、B-7区間のセンサーが妙な数値を返している。生体認証は通る。運賃も引かれる。でも、乗客の識別ハッシュが一部欠落した状態で上流に流れている。上流、つまり内閣ユニットの統計処理。誰がどこに移動したか、という情報が、穴だらけになっている。
報告は上げた。三回。
三回とも、同じ返答だった。「現行ドクトリン署名との整合性を確認中。対応保留」。
叔母のテープが、少しノイズを挟んだ。
「……あんたね、保留って返ってきたら、保留にしときなさい」
知ってる。知ってるけど。
隣の車両との連結部から、風が吹き込んできた。四月の風。排気ともコンクリートとも違う、妙に甘い匂い。高架の下にある何かの木が咲いているのだろう。
昨日、同僚の浅田が教えてくれた。B-7区間のセンサー欠落は、非公式の対応手順書に載っているらしい。正規の報告を上げず、保守員の判断でセンサーの識別精度を手動で「一段下げる」。すると欠落が消える。数値上は正常に見える。上流も文句を言わない。
「みんなやってる」と浅田は言った。
私はウォークマンの早送りボタンを押した。テープがキュルキュル鳴って、叔母の声が潰れた。
巻き戻しボタンを押す。
叔母が言う。
「——保留にしときなさい」
同じことだ。何度巻き戻しても。
モノレールがB-7区間に入った。窓の外を、センサー柱がゆっくり流れ始める。私はポケットから保守端末を出した。画面に表示された二つの選択肢。「正規手順で記録」「手動補正」。
手動補正を選べば、今日の報告は五分で終わる。正規手順なら、また保留が返ってくる。
耳元で、テープのヒスノイズだけが鳴っている。叔母の録音は、ここで途切れていた。
指が、画面の上で止まった。
センサー柱の三つ目のレンズが、窓越しにこちらを見ている気がした。見ているのか、もう見えていないのか、それすらわからないまま、モノレールは次のノードへ滑り込んでいった。