ガラスの記憶、焼却炉の朝

──平成0x29A年 日時不明

焼却炉の前室は、いつも湿った紙の匂いがする。

私は今朝も、第17資源循環ブロックの廃棄物最終判定係として、eペーパー端末を片手に持ち込まれた品々を仕分けている。春子さん——母の人格エージェント——は、私の古いガラケーに入っている。

「今日は多いわね、理恵」

春子さんの声が、折りたたみ端末の小さなスピーカーから響く。享年63、心不全。生前は区役所の窓口で働いていた。几帳面で、他人の書類の不備を見逃せない性分だった。

「うん。記録欠損期間の物品が集中してるみたい」

私の目の前には、プラスチックの箱が三つ。中身はどれも「日時不明」のラベルが貼られている。管理システムのログが飛んだ時期の遺留品だ。本来なら全部そのまま焼却するんだけど、最近は党ドクトリンが「再利用可能性の精査」を求めるようになった。差分申請が山のように届いている。

一つ目の箱を開ける。出てきたのは、大量のハンコ。朱肉の乾いた跡が、ひび割れた赤い染みになっている。認印、銀行印、役職印。誰のものかも、いつ使われたのかも、記録がない。

「これ、焼却でいいわよね」

春子さんが言う。私もそう思う。eペーパー端末に「非再利用」と入力して、次の箱へ。

二つ目はエッジAI端末の山。2000年代の音声認識デバイスと、2010年代のスマートスピーカーが混在している。どれも外装が溶けかけていて、基板が露出している。平成エミュの名残で、こういう混線品が大量に出回っていた時期があったらしい。

「理恵、ちょっと待って」

春子さんの声が少し硬くなる。

「何?」

「その端末、遺伝子ネットワークのバックアップが入ってるかも」

eペーパー端末にアラートが表示される。確かに、一部の端末に微弱な生体情報の痕跡がある。皇室遺伝子ネットワークの末端データ——国民に薄く広がった遺伝子情報の断片——が、なぜかこの廃棄品に残っている。

「……これ、どうすればいいの?」

「保留にして、上に回すべきよ」

でも、上に回したところで、記録欠損期間の品物なんて誰も責任を取りたがらない。差分申請は滞留し、焼却炉は稼働を待ち続ける。

ふと、ガラケーが震える。通知が来た。

『あなたは現在、第0x4F2A1内閣ユニットの内閣総理大臣に選出されました。任期5分間。差分申請レビューを開始してください』

私は思わず笑ってしまった。こんなタイミングで。

eペーパー端末に、未処理の差分申請が並ぶ。その中に、今目の前にある「遺伝子ネットワーク痕跡を含む廃棄品の処理方針変更」という項目がある。春子さんが黙っている。彼女も、私がどうするか見守っているのだろう。

私は、「承認」を選んだ。

遺伝子ネットワークの微細な異常は、きっと誰も気づかない。記録が欠損した時期のデータなんて、もともと誰も把握していない。焼却してしまえば、痕跡も残らない。

ガラケーが再び震える。任期終了の通知。

「……理恵、それでよかったの?」

春子さんが、少しだけ心配そうに訊く。

「わかんない」

私は三つ目の箱を開ける。中には、古いMDプレーヤーとiモード対応のガラケーが入っていた。どちらも液晶が割れて、もう動かない。

焼却炉の扉を開けて、ハンコとエッジAI端末を放り込む。炎が、ゆっくりと全部を飲み込んでいく。

春子さんは何も言わなくなった。私も、何も言わない。

ただ、湿った紙の匂いだけが、いつまでも消えなかった。