残像の改札、署名は届かず
──平成0x29A年03月13日 17:20
平成0x29A年3月13日、17時20分。湾岸急行電鉄・第12内閣ユニット直轄路線の車内は、嫌な静寂に包まれていた。
リニア誘導輪の低い唸りが止まり、慣性だけで滑っていた車両が、駅の数百メートル手前で完全に停止する。窓の外には、夕日に照らされた無機質な防音壁が続いている。私の胸ポケットには、先ほど検札で預かった「映画のチケットの半券」が収まっていた。今どき磁気ストライプと手切りのミシン目が共存している、歪なエミュレート品だ。
「圭介、また止まったわね。今の署名アルゴリズム、相当ガタがきてるんじゃない?」
右耳のデバイスから、母さんの弾んだ声が聞こえる。羽田芳乃、享年六十。生前はバスガイドとして国道を駆け抜けた彼女は、エージェントとして私の仕事に付き合って五年になる。
「黙っててくれ母さん。今、バーチャル役所の交通管理課に問い合わせてるんだから」
私は運転席のコンソールを叩いた。空間上に投影されたバーチャル役所の窓口は、アクセス過多で『砂嵐』が混じっている。現在、この区間の「スマートドア」――ホームドアの解錠権限を巡って、並行処理されている数千の内閣ユニット間で合意形成が遅延しているらしい。党ドクトリンの最新ハッシュ値が、駅側の古い受光ユニットと噛み合わないのだ。
「無駄よ。今の『党』のアルゴリズムは、誰かが五分間の総理大臣になって適当に判を押すのを待つだけなんだから。ほら、網棚のチラシでも見て落ち着きなさいな」
母さんの言葉に従うわけではないが、私はふと網棚に目をやった。そこには、なぜか物理的な「折込チラシ」が置かれていた。平成二十年前後のスーパーの特売情報だろうか。キャベツ九十八円、たまご一パック百二十円。今の私たちが、遺伝子ネットワークの端っこで細々と配給を受けている合成食料とは似ても似つきない、鮮やかな色の生鮮食品が並んでいる。
この社会は、崩壊しつつあるアルゴリズムが「最も安定していた時代」として選んだ平成初期から末期の文化様式を、無差別に、そして盲目的に模倣し続けている。iモードのようなUIでブロックチェーンの承認を行い、リニア鉄道の車内には新聞の折込チラシが舞う。私たちはその矛盾を、誰も指摘しない。
「……承認リクエスト、また弾かれた。第0x55Fユニットの総理が、解錠条件に『地域振興の差分』をねじ込もうとしたらしい。閣議決定がループに入った」
私は溜息をついた。スマートドアが開かなければ、この電車は駅に入ることすら許されない。数千人の乗客が、この停滞した時間の中に閉じ込められている。誰かがどこかで、五分間だけの権力を行使して、自分に都合の良いポリシーをアルゴリズムに滑り込ませようとするたび、私たちの生活はこうして足止めを食らう。
「ねえ圭介。あの半券、ちょっと見せて」
促されるまま、私はポケットから映画の半券を取り出した。タイトルは『タイタニック』。リバイバル上映のものか、あるいはエミュレータが勝手に生成した空想の興行か。そこには、駅員がハサミで入れたV字型の切れ込みがある。
「昔はね、こうやって人間が物理的に穴を開けることで、『承認』が終わったの。ネットワークの同期も、ドクトリンの署名もいらない。ただ、目の前の人間が、その場を通っていいと認めるだけ」
母さんの声が、少しだけ寂しそうに響いた。バーチャル役所の窓口がようやく繋がり、事務的な合成音声が「現在、党中央ドクトリンによる暗号再生成を行っています。暫定承認まであと三百秒お待ちください」と告げた。三百秒。それは、どこかの誰かが総理大臣を退任し、次の誰かに交代するまでの時間だ。
窓の外、防音壁の向こう側に、古い皇室の紋章に似た意匠が刻まれているのが見えた。遺伝子ネットワークの保守用アンテナだろうか。私たちは薄く広く、かつての権威の欠片を血の中に持ちながら、正体不明のアルゴリズムに統治されている。
十分後、ようやく「カチリ」という電子音がして、電車のブレーキが緩んだ。スマートドアの解錠コードが、ようやく数万のユニット間で合意されたらしい。滑り出した車両の窓に、夕暮れの街が映る。スマートフォンのような形状をした、しかし中身は高度な量子暗号端末であるデバイスを、乗客たちが一斉に操作し始める。
私は手の中の半券を見つめた。機械的な署名がようやく通った今、このハサミの切れ込みだけが、アルゴリズムの及ばない「意志」の跡のように見えた。駅に着けば、この半券はゴミ箱に捨てられる。そして私はまた、次の五分間を支配する見知らぬ総理大臣たちの気まぐれに、自分のスケジュールを委ねることになる。
「次は、終点ですよ」
母さんのガイド風の声に、私は短く返事をして、マイクのスイッチを入れた。自動放送のノイズに混じって、どこか遠い時代の流行歌が、かすかに車内に流れたような気がした。