深夜のラーメン景品と、通らない判子
──平成0x29A年10月20日 00:30
午前零時を回った観光案内所は、蛍光灯が一本切れかけていて、受付カウンターの右端だけが薄暗い。
あたしはその薄暗い側に座るのが好きだった。
第12観光ブロック「平成横丁」。再現された商店街を外国語圏ブロックからの来訪者が歩き回る、いわゆる体験型の観光施設。あたしはその深夜帯の案内窓口を一人で回している。
十月の夜中だというのに、さっきまで団体が三組いた。合成食品プリンタで刷り出した「屋台ラーメン」を観光客が啜る音が、薄い壁越しにずっと聞こえていた。醤油の匂いだけは本物に近い。脂のコクは足りないが、来訪者たちは気にしない。「ヘイセイの味だ」と笑っている。
カウンターの上に、景品のミニチュアが並んでいる。カップ麺メーカーのロゴが入った小さなフィギュア。インスタントラーメンを買うと一つもらえる仕掛けで、来訪者はこれを目当てに三つも四つも買っていく。今夜はシリーズ7の「湯切り妖精」が品切れになった。
「在庫申請、出しといたほうがいいんじゃないの」
右耳の奥で、おばあちゃんの声がした。
宮原 ハナ。あたしの母方の祖母で、享年六十八。腎不全だった。生前は観光バスのガイドをしていたらしく、在庫管理にやたら口を出す。
「もう出したよ。さっき」
「あら、そう。あたしが寝てる間にねえ」
エージェントは寝ない。処理を低電力モードにしているだけだ。でもおばあちゃんは「寝てた」と言い張る。生前の癖がそのまま残っている。
カウンターの引き出しを開けると、前任者が置いていったカセットテープが転がった。ラベルに「接客マニュアル 音声版」と油性ペンで書いてある。再生する機材はこの案内所にはない。隣の展示棟にラジカセが飾ってあるけれど、あれは触れない決まりだ。
そのとき、手元のエッジAI端末が震えた。
画面に青い枠。閣議リクエストの通知。
——第0x7A21F内閣ユニット 内閣総理大臣 宮原 彩音
「……またか」
あたしの名前だった。五分間の任期。カウンターに肘をついたまま、あたしは総理大臣になった。
リクエストは二件。一件目は隣のブロックの排水基準の微調整。おばあちゃんが数値を読み上げてくれて、差分は小さい。承認ボタンを押した。
二件目で指が止まった。
第12観光ブロックの合成食品プリンタ稼働時間延長申請。うちの横丁の話だ。深夜帯の来訪者増加に対応するための、運用パラメータの変更。あたし自身が先週、上に頼んで出してもらった案件だった。
おばあちゃんが静かに言った。「署名、通らないわよ、これ」
分かっていた。党ドクトリンの暗号署名。食品衛生カテゴリの変更には追加の整合パラメータが要る。だが申請書の分類コードが「設備」になっている。誰かが入力を間違えたのか、それともシステムの自動分類が揺れたのか。どちらにせよ、署名アルゴリズムが噛み合わない。
エッジ端末の画面に赤い警告。「ドクトリン署名不整合:カテゴリ齟齬」。
差し戻すしかない。あたしは非承認を押した。自分で望んだ申請を、自分で弾いた。
五分が終わった。端末の青い枠が消えて、あたしはただの深夜窓口の案内係に戻った。
蛍光灯がちらつく。壁の向こうで、合成ラーメンの匂いがまだしている。
おばあちゃんが言った。「分類コード、直して再提出すればいいでしょう。明日の朝、担当に言いなさい」
「……うん」
カセットテープを引き出しに戻しながら、あたしはふと思った。このテープにも、前の誰かの声が残っているのだろう。聞く手段がないだけで。
あたしの手元には、おばあちゃんの声がある。それはたぶん、悪くないことだ。
端末の時計が午前零時三十四分を指していた。景品の湯切り妖精の再入荷は明後日。来訪者はまた来る。申請も、また出せる。
蛍光灯が一瞬だけ明るく灯って、すぐにいつもの薄暗さに戻った。