砂嵐に消える指先
──平成0x29A年05月15日 01:10
午前一時十分。旧杉並エリア、西荻窪総合市民サービスセンターの夜間窓口は、海底のように静まり返っていた。
窓の外には、空高くそびえ立つ高層農業プラントが、紫色のLED光を夜空に放射している。遺伝子組み換えされた高速成長レタスを育てるためのその光が、薄い霧に反射して、街全体を毒々しいほど鮮やかなラベンダー色に染めていた。
「……安藤結衣さん。聞こえていますか」
鼓膜の奥で、平坦な合成音声が響いた。私の脳内に直接語りかけてくるのは、一週間前から割り当てられている代理エージェントの『D-102』だ。母の、安藤佳代のエージェントが法定倫理検査に入ってから、私の思考の半分はこの無機質なノイズに占領されている。
「聞こえてる。報告を続けて」
「安藤佳代人格データの倫理検査が、先ほど完了しました。判定は『停止』。党ドクトリンの最新アルゴリズムに基づき、社会安定への寄与度が規定値を下回ったため、データの永続的削除プロセスが開始されます。異議申し立ては認められません」
デスクに置かれたCRTモニターが、磁気干渉でわずかに震えた。ブラウン管特有のパチパチという静電気が、私の指先を逆なでする。削除。その二文字が、あまりにもあっさりと脳内に放り込まれた。
「削除って……母さんが消えるってこと?」
「正確には、安藤佳代の人格を模したアルゴリズム・セットの消去です。残存する記憶断片は、党ドクトリンの深層学習リソースへと還元されます。あなたは今後、永続的に代理エージェント、あるいは新規に生成された親族人格を使用することになります」
窓口の呼び出しブザーが鳴った。ピンポンパンポン、という、平成のスーパーマーケットを彷彿とさせる安っぽい合成音声が、高い天井に反響する。
私は顔を上げ、努めて事務的な表情を作った。防弾ガラスの向こうに、よれよれのトレンチコートを着た老人が立っていた。
「……更新をお願いしたいんだ。これが、弾かれてしまってね」
老人が差し出したのは、一枚の磁気定期券だった。平成エミュレート政策によって、このエリアの鉄道はあえてICチップを使わない物理的な磁気カードを維持している。自動改札をシュッと通り抜ける音や、券売機から吐き出される熱いカードの感触が、社会の『手触り』を保つのに最適だと党が判断したからだ。
私は震える手で定期券を受け取り、読み取り機に通した。CRTモニターに赤いエラー文字が踊る。
『ERROR: 磁気ストライプ未検出。閣議決定ユニット0x882による署名待機中』
「……読み取れません。データが摩耗しているようです」
私が言うと、代理エージェントが冷たく補足した。
「当該カードは廃棄推奨。閣議リクエストを送信し、新規発行を案内してください。所要時間は五分です」
その時だった。ノイズ混じりの記憶が、脳の隅で火花を散らした。
まだ母が、代理ではなく『母さん』として私の脳内にいた頃。私が初めてこの窓口に配属された日に、彼女は笑って教えてくれたのだ。
『いい、結衣。ドクトリンは完璧じゃないの。古いカードが言うことを聞かない時はね……』
私は無意識に、自分の制服の裾を捲り上げた。そして、老人の定期券の磁気部分を、ウールの布地で力強く、何度もこすった。静電気を起こし、磁気の粒子を無理やり整列させる。マニュアルにはない、かつての戸籍係だった母の、泥臭い手癖だ。
もう一度、読み取り機にカードを通す。ガガッ、という不快な音のあと、モニターの画面がパッと切り替わった。
『閣議承認:第402ヘゲモニー期ドクトリン署名完了。更新成功』
「通ったわ……」
「おや、すごいね。魔法だ」
老人が嬉しそうに目を細める。私は無言で、更新された定期券を返した。
その瞬間、脳内で激しい砂嵐のような音がした。代理エージェントの無機質な声が、一瞬だけ、歪んだ気がした。
「削除プロセス、完了しました。安藤佳代人格データの完全消去を確認。……お疲れ様でした、安藤結衣さん」
頭の中が、急に軽くなった。風通しが良すぎて、めまいがするほどの空虚。
私は一人で、CRTモニターを見つめた。画面には、今しがた承認された定期券の更新履歴だけが残っている。
母さんは消えた。アルゴリズムが彼女を不要だと判断し、塵のように散らした。
けれど、私の指先にはまだ、定期券をこすった時のウールの感触と、わずかな熱が残っている。
窓の外では、農業プラントの紫色の光が、朝の気配に押されて少しずつ薄くなっていた。私は次の番号を呼ぶために、合成音声のボタンに指をかけた。母さんが教えてくれた、少しだけ力の要る、古いボタンの押し方で。