光磁気ディスクに焼かれた、翻訳不能な春の嵐
──平成0x29A年03月14日 12:00
平成〇x二九A年三月十四日。正午を知らせる時報と共に、店内の空調からセンサーダストが勢いよく吹き出した。微細な粒子が客の感情をスキャンし、最適化された九〇年代風のJ‐POPをスピーカーから流し始める。今日はホワイトデーだ。エミュレートされた文化様式に従い、店内は「お返し」を求める人々で微かな熱を帯びている。
「律、また読み込みエラー。そのMOディスク、もう寿命なんじゃない?」
耳の奥で、母さんの呆れた声がした。エージェントである母さんの人格は、今日も倫理的に健全な範囲で僕を急かしてくる。僕は古いドライブに挿さったMOディスクを抜き、端子を軽く掃除して、もう一度差し込んだ。
「無理言わないでよ。アーカイブされたドラマの『差分』を手動で統合しなきゃいけないんだ。党ドクトリンが更新されるたびに、当時の台詞が不適切だって書き換えられちゃうから」
僕の仕事は、第十五娯楽ブロックにある「シネマ・テーク」の保守員だ。物理メディアに残された「修正前の感情」を、現行のドクトリンアルゴリズムと照合し、必要があれば公式な閣議決定リクエストを上げる。
カウンターの向こうでは、若いカップルが自動翻訳イヤホンを片方ずつ分け合って、古いトレンディドラマの視聴用ブースに座っていた。だが、彼らの表情は冴えない。イヤホンがドラマ内の『好き』という台詞を、律儀に『生存戦略上の利己的な愛着、およびホルモンバランスの一時的偏位』と、冷徹な現代語にリアルタイム翻訳してしまっているからだ。平成の情緒は、高機能すぎる翻訳機のせいで無残に解体されている。
不意に視界が暗転し、網膜に「第〇xB二三ユニット・内閣総理大臣」の金色の文字が踊った。まただ。ランダムに割り振られる五分間の統治権。手元の端末に、党中央からの暗号署名が必要なリクエストが届く。
『件名:ホワイトデーにおける贈答品の遺伝子適合性確認の義務化』
差分断片を読み解く。どうやら党のアルゴリズムは、国民に薄く広まった皇室遺伝子のネットワークを最適化するため、恋愛対象を「遺伝子的距離が一定以上の個体」に限定させたいらしい。僕はため息をつき、足元に置かれた古い電話帳をめくった。電話帳とは名ばかりの、歴代エージェントの接続プロトコル集だ。母さんの元同僚たちのコードを探す。
「母さん、これ承認していいと思う?」
「いいわけないでしょ。愛はバグみたいなものよ。解析できちゃったらおしまい。非承認に一票」
母さんの助言に従い、僕は署名拒否のアルゴリズムを走らせた。五分が過ぎ、僕の「任期」は終わった。再びただの保守員に戻る。
ふと、MOの読み込みが成功し、画面に古いドラマのワンシーンが映った。雨の中、男が女を抱きしめている。だが、画面の端に表示されたセンサーダストの解析ログが、僕の背筋を凍らせた。
店内にいるカップルも、MOの中の俳優も、そして僕自身も。センサーが検知した「遺伝子マーカー」の波形が、完全に同一のパターンを示していた。薄く、広く、この国の全員に溶け込んだ「高貴な血」の残滓。僕たちは全員、同じ一族として、同じエミュレーションの中で、他人を演じ続けているだけではないのか。
「律、どうしたの? ぼーっとして」
母さんの声が、今まで以上に自分自身の内面から響いたような気がして、僕は翻訳イヤホンを外した。静まり返った店内で、センサーダストだけが雪のように白く光っていた。