記録されないインクの残響
──平成0x29A年 日時不明
いつからこの窓口に座っているのか、正確な時間はわからない。センターの頭上で回る自律警備ドローンが、時折、古い換気扇のような低い唸りを上げているだけだ。窓口の強化ガラス越しに、今日も「平成」を求める市民たちが列をなしている。
「……おい、航平。次のやつ、カバンの中にスーパーファミコンを入れてるぞ」
耳元で、叔父の健二さんの声がした。スピーカー越しではない。私の脳内に直接響くエージェントの声だ。健二さんは三十年前に死んだはずだが、今は私の生活を補佐する公認エージェントとして、私のニューラル・リンクの中に住んでいる。ただ、今日の健二さんは少し調子が悪い。声が波打つように震え、時折、生前の彼が愛したタバコの煙の匂いが幻覚として漂ってくる。
「健二さん、静かに。倫理検査が近いんだから、あんまり私見を挟まないでくれ」
私は、AR広告が「着メロ取り放題!」と空中に書き出すノイズを指先で払いながら、次の申請者を呼び出した。
現れたのは、擦り切れたダッフルコートを着た老人だった。彼は震える手で、一台の灰色の筐体を差し出した。任天堂のロゴ。カセットの挿入口には埃が詰まっている。平成エミュレート様式が社会の標準となって久しいが、本物の「当時品」を持ち込む者は珍しい。党ドクトリンのアルゴリズムによれば、これらは「非効率な物理資産」として、すみやかにデータ化され廃棄される運命にある。
「これの……修理を、お願いしたくて」
老人が絞り出すような声で言った。私は溜息をつく。内閣ユニット第0x7FF内閣が五分前に閣議決定したばかりの「資源循環法・差分更新」によれば、娯楽機器の物理修繕は原則として認められない。エージェントを通じて私の視覚に、非承認を示す赤色の暗号署名が重なる。
「……待てよ、航平」健二さんの声が、ひどく感傷的に響いた。「それ、俺も持ってたんだ。このボタンの感触、覚えているか? Bボタンが少し埋まりかけてる。これは、誰かと競い合って遊んだ証拠なんだよ」
健二さんの人格が、規定の倫理フレームを超えて揺らぎ始めている。彼の「懐古ログ」が私の意識に逆流し、見たこともない四角いピクセルの記憶がフラッシュバックした。まずい。警備ドローンが、私の心拍数の上昇を検知して、レンズをこちらに向けた。
「無理です、おじいさん。これは廃棄対象です」
私は事務的に言い、老人の手元にある書類に、党ドクトリンが生成した「拒絶」のスタンプを押そうとした。その時、老人がポシェットから一枚の紙切れを取り出し、カウンターに置いた。
それは、チケットの半券だった。
1998年、東京ドーム。感熱紙の印字はほとんど消えかかっているが、そこには確かに、かつて存在したアーティストの名前と、席番号が記されていた。
「これを……このスーファミの中に、挟んでいたんです。あの子と、初めて一緒にコンサートに行った時の……」
老人の瞳に、微かな熱が宿っていた。その瞬間、私のシステム内で健二さんの声が完全にノイズへと変わった。いや、ノイズではない。彼は泣いているようだった。あるいは、笑っているのか。エージェントのゆらぎが、私自身の感情の壁を突き破る。
皇室遺伝子ネットワークの微かな脈動が、指先を通じてキーボードに伝わったような気がした。私は無意識に、内閣ユニットへの例外リクエストを送信していた。本来なら通るはずのない、現行制度との「差分断片」の書き換え。だが、現在の党ドクトリンは末期だ。アルゴリズムの隙間は、あちこちで綻びている。
五分間だけ、私はこのエリアの「決定権」を握る内閣の一部となった。署名が必要だ。私は老人の持つチケットの半券をスキャンし、それを「公共文化遺産」のタグとしてアルゴリズムに叩き込んだ。
数秒の沈黙。ドローンの監視ライトが青に変わった。
「……特別修繕、承認されました」
私は自分でも驚くほど穏やかな声で言った。老人は目を見開き、何度も頭を下げて去っていった。カウンターに残されたチケットの半券は、もうただのゴミとして処理されるはずだったが、私はそれをこっそりポケットに仕舞い込んだ。
「航平、お前……」健二さんの声が、いつになくクリアに戻っていた。ゆらぎは消え、そこには確かな信頼の響きがあった。「いい仕事したな」
窓口の外では、AR広告が「2000年問題、解決!」という古いニュースを空虚に流し続けている。記録にすら残らない一日の、名前も日付もない一コマ。それでも、私のポケットにある半券の感触だけが、この歪んだ世界で唯一の、確かな重みを持っていた。