ノイズの海、カーボン複写の波打ち際
──平成0x29A年03月21日 03:40
午前三時四十分。第十九地区の「スクラップ・アーカイブ」は、常に低い唸りを上げている。
視界の隅では、カサカサと音を立てる数百台の物流用群ロボットが、山積みにされた二十世紀末の遺物を仕分けていた。彼らは多脚型の無機質な手足で、錆びたPCエンジンや、中身の抜けたMDウォレットを黙々とコンテナへ放り込んでいく。
「ねえ、陽平。また同期エラー。これで今夜は四回目」
耳の奥で、サキが困ったように笑った。サキは三年前、この地区を襲った局地的なサーバーダウンの際、医療ユニットの優先順位から漏れて死んだ。今、彼女は俺の左側頭部に埋め込まれた人格エージェントとして生きている。
「党ドクトリンのアルゴリズムが、この古いフラッシュメモリを『意味不明なノイズ』と判定してるわ。承認署名が通らない」
俺は作業用のグローブを外し、群ロボットが足元に置いていった「未確認遺物」を手に取った。それは、湿気で端が丸まった手書きの領収書だった。カーボン複写の跡が薄く残り、日付には『平成二十年三月二十一日』とある。宛名は空欄、但し書きには『お品代として』。何万回と書かれたであろう、あまりにありふれた断片。
作業場に設置された古いスピーカーからは、平成エミュレートの一環として流されている深夜ラジオのノイズが響いている。パーソナリティが、今の世界では誰も知らないはずの「不倫スキャンダル」について熱っぽく語っていた。その声に重なるように、空間には「超解像度たまごっち・デラックス」のAR広告が明滅している。二十年以上前の玩具を、最新のホログラム技術で売ろうとする歪な光景だ。
「サキ、この領収書の『差分』を、第0x4F2内閣ユニットに投げてくれ。リクエスト名は『個人の生活感の保全』だ」
「無駄よ。今の党ドクトリンじゃ、物理的な紙切れ一台分のデータ価値は、標準的なアルゴリズム署名一回分にも満たないわ」
「いいから。俺が総理大臣に選ばれるまでの五分間に間に合えばいい」
俺は、手書きの領収書をスキャナにかける。その瞬間、再同期トラブルの警告が真っ赤なARウィンドウとして視界を埋め尽くした。古いメモリから溢れ出したのは、誰かの家計簿の断片と、一通の短いボイスメモだった。それは、党が「社会安定に不要」と切り捨てた、取るに足らない感情のゴミだ。
エラーコードが鳴り響く中、ラジオの曲が切り替わった。聞いたこともないはずなのに、なぜか懐かしい旋律。サキが不意に黙り込む。彼女の処理能力が、そのデータ断片の解析に回されたのがわかった。
「……陽平。この領収書、お花屋さんへの支払いみたい」
サキの声が、少しだけ震えていた。ボイスメモには、ノイズに紛れて『ありがとう、また明日ね』という一言だけが残っていた。アルゴリズムがどれだけ冷徹に「不要」と弾いても、その瞬間の体温までは消しきれなかったらしい。
群ロボットの一台が、俺の足元をコツンと叩いた。次の廃棄物を運んできたのだ。俺は領収書を胸のポケットにしまい込み、同期エラーを強制解除した。公式なアーカイブには残らない。けれど、俺の左側頭部にあるサキの記憶領域には、その『ありがとう』が刻まれた。
「承認、通ったの?」
「いや、否認された。でも、いいんだ」
俺は再びグローブをはめた。深夜ラジオのDJが、午前四時を知らせる。AR広告のたまごっちが、液晶画面の中で楽しそうに跳ねた。ゴミの山は相変わらず高いままだが、ポケットの中の紙切れ一枚分だけ、この歪んだ平成の世界が、ほんの少しだけ本物に近づいた気がした。