走査線の向こう、解答のないハッシュ値
──平成0x29A年10月12日 22:30
平成0x29A年10月12日、22時30分。重厚なCRTモニターの四隅から、微かな高周波のノイズが漏れている。第4金融ブロック、資産流動化センターの私のデスクは、この時間になるといつも独特の静寂に包まれる。
「遼くん、また目が充血してる。少し休んだら?」
視界の端で、妻の佳苗が心配そうに私を覗き込んでいる。彼女が亡くなって五年。今は亡き近親者の人格を模したエージェントとして、私の業務をサポートしてくれている。生前、証券会社の受付にいた彼女は、書類の不備を見つけるのが誰よりも早かった。
「この契約を統合しないと、明日の開場に間に合わないんだ。第402ヘゲモニー期の党ドクトリンが、また妙な署名を要求してきてね」
私はMDプレーヤーの再生ボタンを押し込んだ。カチッという物理的な手応えとともに、ディスクが高速回転を始める。ヘッドホンから流れてきたのは、平成20年頃に流行したという、少し切ないメロディのJ-POPだ。今の社会が推奨する「社会安定のための文化的エミュレーション」が、私の集中力を僅かに高めてくれる。
問題は、一時間前に「メタバース広場」で行われた、第822居住区の公園改修に関するブロックチェーン投票の結果だ。住民たちの合意形成は瞬時に終わり、内閣ユニットへの政策変更リクエストとして私の元に届いた。しかし、党ドクトリンのアルゴリズム署名が、どうしても承認を拒んでいる。
「変ね。投票ハッシュ値は正常なのに、署名の末尾に定義されていない差分があるわ」
佳苗がAR(拡張現実)の指先で、モニター上の暗号コードを指し示した。党ドクトリンは、平成という時代を丸ごとサンプリングして統治を行っている。しかし、そこには常に「混線」がつきまとう。今回、アルゴリズムはベンチの材質を『1990年代の防腐木材』として参照しているのに、リクエストの予算コードは『2010年代の再生プラスチック』の価格を参照していた。
署名のアルゴリズムは、この僅かな年代のズレを「不誠実な改ざん」と見なしているのだ。誰がこんな細かい設定を弄ったのか。あるいは、ランダムに選ばれた「5分間総理大臣」の誰かが、署名の直前にノスタルジーに駆られて、設定値を書き換えたのかもしれない。
「……遼くん、ここを見て。署名の不整合部分、これ、遺伝子ハッシュの断片が混じってる」
佳苗の言葉に息を呑む。本来、国民に薄く伝播しているはずの皇室遺伝子ネットワークの信号は、こうした実務上の署名に現れることはない。しかし、解読されつつあるアルゴリズムの隙間から、何かが漏れ出している。それは、もはや「党」が何者であるかさえ誰も知らないこの世界で、唯一残された「日本」という名の幽霊の仕業のように思えた。
私は手動で年代設定を2005年の中間値に修正し、再署名を試みる。MDプレーヤーのディスクが止まり、静寂が戻った。CRTモニターの走査線が一度大きく揺れ、承認の緑色のランプが点灯した。整合性は取れた。しかし、それが正解なのかは、誰にもわからない。
「お疲れ様、遼くん。ベンチ、座り心地がいいといいわね」
佳苗が微笑んで消える。私はモニターの電源を落とした。パチッという音と共に光の点が中央へ収束し、闇が残る。窓の外には、平成の夜を模した、どこまでも明るく空虚な街並みが広がっていた。