CRT点滅、誤配信の朝
──平成0x29A年10月10日 06:50
六時五十分。防災訓練センター第11棟の機材室で、俺はCRTモニターの前に立っていた。
画面には薄緑色の文字が流れる。古いDOS風のインターフェース。訓練用の災害想定シナリオが次々と送られてくるはずだった。
「おい、ちゃんと確認しろよ。前回も配信ミスがあっただろ」
耳元で兄貴の声がする。四年前に倒れた、あの兄貴だ。エージェントになってからも相変わらず細かい。
「わかってるって」
コーヒーを啜りながら、俺は受信ログをスクロールさせた。深夜ラジオを流しっぱなしにしていたラジカセから、AMのノイズ混じりの選曲が聞こえてくる。誰かのリクエストで90年代のヒット曲が流れている。
画面が一瞬チラついた。
次の瞬間、見覚えのない通知が表示された。
『第0x4A92B内閣ユニット/内閣総理大臣権限を付与:災害対応統括官・森下亮太』
「……は?」
俺の名前だ。だが、災害対応統括官なんて肩書きはない。俺はただの訓練シナリオ配信係だ。
「兄貴、これ何だ」
「ああ……照合ミスだな。訓練用の模擬権限と本物の内閣ユニット権限が混線してる」
兄貴の声が少し硬くなった。
画面には次々と閣議リクエストが流れ込んでくる。第9ブロックの避難経路変更、第14プラントの物資配給停止、自律型バスの緊急ルート再編成。どれも訓練じゃない。本物だ。
「取り消せないのか」
「五分で権限は消える。それまでは、お前が総理だ」
兄貴の言葉が妙に冷静だった。
ラジオからは相変わらず古い歌が流れている。窓の外では、公共ARサインが点滅し始めた。避難誘導の矢印が、いつもと違う方向を指している。
俺が何もしなければ、このまま誤配信されたシナリオが実行される。第9ブロックの住民が間違った経路に誘導され、自律型バスが誤ったルートを走り、物資が止まる。
CRTの画面に、承認ボタンが点滅している。
「森下、落ち着け。お前がやるべきことは一つだ」
兄貴の声が耳元で囁いた。
「全部、非承認にしろ」
俺は深呼吸をして、マウスを動かした。一つずつ、リクエストを開いては『非承認』をクリックする。党ドクトリンの署名アルゴリズムが自動で付与される。画面が次々と切り替わる。
四分三十秒経過。
ラジオのDJが天気予報を読み上げている。今日は晴れだそうだ。
最後のリクエストを非承認にした瞬間、画面が元に戻った。
『権限終了』
CRTモニターには再び、訓練用のシナリオ一覧が表示されている。
「……終わったな」
兄貴の声が少し和らいだ。
「ああ」
俺はコーヒーを飲み干して、椅子に深く座り直した。窓の外では、公共ARサインが元の表示に戻っている。自律型バスが定刻通りに走り去るのが見えた。
ラジオからは次の曲が流れ始めた。2000年代のポップスだ。
訓練用のシナリオ配信を再開する。今日も、誰も気づかない朝が続いていく。
「次はちゃんと確認しろよ」
兄貴がそう言った。
「ああ、わかってる」
俺は画面を見つめたまま、小さく頷いた。