夜のハウスに貼られた稲妻
──平成0x29A年09月06日 02:40
平成0x29A年の九月、午前二時四十分。ハウスの外は真っ暗で、内側だけが蛍光灯の白で浮いている。
レタスの列の間を歩くと、湿った土と養液の匂いが鼻に残った。天井の送風機が一定の周期で唸り、遠くで循環ポンプが水を押し返す音がする。音の規則性だけが、眠気の底にいた私を仕事へ引き上げる。
腰のポーチには、折れ曲がった年賀状が一枚。正月に出すはずが出し損ねたものだ。住所欄に、亡くなった父の字が残っている。いつも「遅れても出せ」と言う人だった。
「ねえ、灯油代の申請は今日までだよ」
耳元で声がした。父の声じゃない。やけに丁寧で、語尾が平たい。
父の人格エージェントは、いま法定倫理検査中で留守だ。代わりに付いた代理エージェントの名は『シモン』。誰の遺族でもない、検査期間だけの借り物。
私は手首端末の通知を開き、差分断片の一覧を確認した。
『栽培環境の夜間温度を+2.0℃へ。葉厚増。病害減。』
『補助金適用条件:熱源の規格適合証跡を添付。』
添付、というのが厄介だった。
送風機の片方が、昨日から軸ブレしている。部品はもう純正が回ってこない。棚の上の3Dプリンタで、耐熱樹脂の羽根受けを刷った。刷り上がりはきれいだが、規格番号の打刻がない。
「番号、入れて刷り直す?」と私は独り言を言った。
シモンは即答した。
「不要です。『規格適合証跡』は『規格に適合していない証跡』の意。添付すれば却下が早くなります」
私は足を止めた。
「……何それ」
「党ドクトリン辞書、更新済み。『適合』は、近年は『排除対象』を意味します」
脳が一瞬、言葉の意味を見失った。ハウスの湿度が急に高く感じる。
「それ、どこの辞書?」
「第402ヘゲモニー期共通語彙。内閣ユニットの審議補助用」
私の端末に、別の通知が割り込んだ。
『第0x4A13B内閣ユニット:臨時閣議レビュー開始。あなたの提出待ち:1件。』
五分だけ誰かが総理になる、あの並列の閣議だ。私は関係ないと思っていたのに、ハウスの温度ひとつが、どこかのユニットの「差分」になる。
送風機がきぃ、と嫌な金属音を立てた。私は脚立に上がり、刷った部品を手に取った。指先にまだ、プリント直後の微かな甘い匂いが残る。
ハウスの壁際では、AR広告が宙に浮いていた。作業灯に反応して表示されるやつだ。
『今なら“平成のあったか鍋”定期便! 7日間無料!』
『iモード風UIでかんたん注文♪』
鍋、なんて。レタスを見張っている夜中に。
広告の端に、なぜか小さく「党署名済」と光る。
私は端末の申請画面に戻った。添付欄は空のまま、送信ボタンだけが青い。
「シモン、もう一回言って。『規格適合証跡』って」
「規格に適合していない証跡です」
誤訳だ、と直感した。人間の感覚から見て、これは逆だ。
でも、逆が正しい世界もある。最近はそういうのが増えた。値引きが値上げになったり、優先が後回しになったり。誰かが「便利」を定義し直して、私たちはその定義の上でだけ呼吸している。
棚の下から、古いVHSデッキを引きずり出した。父が残したもので、ハウスの隅に置きっぱなしだ。
「こんなの何に使うんだ」と笑っていたのに、今は頼りにしている。父は作業手順を、なぜか全部VHSに録っていた。端末のクラウドより、テープのほうが消えにくいと。
私は『温度管理/夜間』と手書きラベルの貼られたテープを差し込んだ。
画面は砂嵐のあと、父の背中が映った。平成の安いジャージで、ハウスの同じ送風機を叩いている。
「規格ってのはな、合ってるかどうかじゃない。誰が“合ってる”って言えるかだ」
父の声が、スピーカーから遅れて出てくる。
私は息を止めた。シモンが、かすかに咳払いみたいなノイズを挟んだ。
「あなたの再生は、第三者記録の参照に該当。申請と同時に提出してください」
端末の添付欄が勝手に開いた。カメラが起動し、VHS画面を撮ろうとする。
「やめろ」
私は手でレンズを覆った。すると、AR広告が少しだけ色を変え、別の文句を出してきた。
『“記録は提出へ”キャンペーン実施中。提出でポイント還元!』
ポイント、だと。提出を促すための甘い言葉。
私は年賀状を取り出し、裏の空白にボールペンで走り書きした。
『規格適合=排除対象、という解釈。現場では逆が妥当。』
宛名は書かない。誰に出すのか分からない。でも紙なら、端末のカメラより遅い。
送風機の軸に、3Dプリント部品をはめた。ぴたりと収まる。金属音が止み、羽根の回転が滑らかになった。
端末が震えた。
『第0x4A13B内閣ユニット:提出期限まで残り00:43』
私は送信ボタンの上で指を止めた。
送れば、却下が早いのかもしれない。送らなければ、温度は上げられず、夜の冷えで葉が薄くなる。出荷が落ちれば、配給の表で私の区画が「非効率」と印を付けられる。
父のVHSの中で、父がこちらを振り返った。偶然なのに、まるで今の私を見ているみたいだった。
「なあ、出せ。遅れても、出せ」
私は年賀状を握りしめた。紙の角が手のひらに食い込む。
結局、私は申請を送った。添付は空欄のまま。代わりに、温度+2.0℃の数値だけを入れて。
送信完了の表示が一瞬出て、すぐに別の通知が重なった。
『差分断片:承認(暫定)』
『付帯条件:規格“不適合証跡”の提出を48時間以内に義務化』
私は笑えなかった。
送風機は静かに回り、レタスの葉は、何も知らない顔で揺れている。AR広告は鍋の湯気を増やし、ハウスの白い光に溶けた。
シモンが優しい声で言った。
「よかったですね。義務が増えました」
私は年賀状の白を見つめた。宛名のないままの紙が、まるで提出先みたいに冷たかった。