公衆電話が鳴るまでは
──平成0x29A年02月17日 06:30
午前六時半。開庁にはまだ早すぎる区役所支所の窓口で、俺は空中ディスプレイの表示テストを繰り返していた。半透明のパネルに浮かぶ「特別申請受付中」の文字が、蛍光灯の光を鈍く反射している。
『潤、本当にいいのかしら。この受付』
スマートグラスの隅で、母さんのエージェントが心配そうな顔で俺を見ていた。生前と変わらない、眉尻の下がった困り顔だ。
「いいも悪いも、決まりだから」
『システムの正式な規定にはないじゃない。監査が入ったらどうするの』
「大丈夫だって。所長も黙認してる」
軽口を叩きながら、内心では俺も母さんと同じことを考えていた。この支所だけでまかり通っている、非公式な優先サービス。システムの順番待ちを無視して、特定の申請を即時処理し、ドローンで即日配達する裏口だ。
やがて、自動ドアが静かに開いた。入ってきたのは、腰の曲がった老婆だった。予約IDを示す端末も持たず、まっすぐ俺の窓口へやってくる。
「おはようございます。片桐です」
老婆は何も言わず、しわくちゃの手で小さな紙片をカウンターに置いた。色褪せた、チケットの半券。インクのかすれた文字で『平成0x290年 納涼盆踊り大会』と印刷されている。
これが、裏口の鍵だった。
『潤、ダメよ。これは党ドクトリンの平等原則に反するわ』
母さんの声が脳内に響く。分かってる。分かってるんだ。だけど、このルールを破れば、俺はここで孤立する。所長も、先輩も、みんなこの「慣例」を「地域の潤滑油」だと言って笑うのだ。
俺が諦めて半券に手を伸ばし、非公式の認証手続きに入ろうとした、その瞬間だった。
ピコン、と軽い電子音が鳴り、視界のど真ん中にポップアップが表示された。
【緊急通達:第0x3F89A内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期は5分間です】
続けて、一枚の政策変更リクエストが目の前に展開される。件名は『地域慣行に基づく非公式な行政サービスの即時禁止について』。
『潤! これよ!』
母さんの声が、興奮で上ずる。リクエストの差分断片は、まさに俺が今やろうとしていた行為そのものを禁止するものだった。これを承認すれば、このおかしな慣例は終わる。今、この瞬間に。俺の一つの署名で。
「……」
俺は、目の前の老婆と、承認ボタンを交互に見た。老婆は、きょとんとした顔で空中ディスプレイを見上げている。
『早く! 時間がないわ!』
そうだ。今しかない。俺は、震える指を承認ボタンへと伸ばした。
その時だった。
ジリリリリリリリ!
静まり返った支所内に、けたたましいベルの音が鳴り響いた。音源は、待合室の隅に置かれた、埃をかぶった緑色の公衆電話だ。緊急時のアナログ回線としてだけ維持されている、過去の遺物。
慌てて受話器を取った所長が、何度か頷いている。
やがて電話を切った所長は、呆れたような、それでいてどこか得意げな顔で俺に言った。
「おい片桐、今、党中央ドクトリンのアルゴリズム解析班から直通だ。その盆踊りの半券、昨日付けで『地域コミュニティ維持に貢献する有益なバグ』として正式にホワイトリスト登録されたそうだ。だから、優先処理、続行しろ」
視界の隅で、5分の任期終了を告げる通知が静かに消えた。
目の前の老婆が、にっこりと微笑む。そして、まるで「早くしろ」とでも言うように、カウンターの上の半券を指で少しだけこちらに押しやった。
『……システムが、一番ルールを守ってないじゃないの』
母さんの呆れ果てた呟きだけが、俺の頭の中に虚しく響いていた。