電話帳の余白、沈黙するシャトル
──平成0x29A年08月20日 07:00
「まだかかんないの? もう七時回るよ」
脳内で春子さんが騒ぐ。彼女は私の母で、生前は小さな運送屋の配車係をしていた。二十年前に死んでからも、こうして私の視神経に居座って、運行スケジュールの遅れに目を光らせている。
「わかってるよ。システムが降りてこないんだ」
私は油に汚れた軍手を外し、腰からぶら下げた家の鍵の束をジャラジャラと鳴らした。第8交通ハブの早朝。目の前には、無人の自動運転シャトルが三台、死んだように沈黙している。車体はピカピカだが、駆動系に組み込んだばかりの3Dプリント部品が、認証ロックを解除できずにいるのだ。
ARゴーグルに表示されるステータスは『第402ヘゲモニー・第903内閣ユニット合意形成中』の文字で点滅したまま。たかが交換部品のギア一つ動かすのに、数十万の仮想内閣による電子署名が必要だなんて、何度考えても狂っている。
「待ってちゃ埒(らち)が明かないよ。大元に電話しな」
「大元って言ったって、担当の認証官はコロコロ変わるし、デジタル名簿はリンク切れだらけだ」
「だから、あれがあるだろ。ほら、ロッカーの奥」
春子さんに急かされ、私は事務所の錆びたロッカーを開けた。カビ臭い空気とともに、分厚い冊子がドサリと落ちる。電話帳だ。数年前のデータ流出事故のあと、なぜかこのエリアだけ物理バックアップとしてこれが配られた。紙の束はずっしりと重く、端は手垢で黒ずんでいる。
ページをめくると、インクの匂いがした。「交通局・認証課」の欄には、歴代の担当者がボールペンで二重線を引かれ、その余白に新しい番号が殴り書きされている。最新の書き込みは『内線49-202(鈴木)』。私は固定電話の受話器を取り、その番号を押した。
数回のコールの後、不機嫌そうな声がした。
「……はい、認証課」
「第8ハブの瀬戸口です。シャトルの部品認証、まだですか。始発が出せません」
「あー、瀬戸口さん。いやね、昨夜から署名アルゴリズムが混雑してて。どっかのブロックでまた『冷やし中華の定義』みたいな無意味な議題が閣議決定を塞いでるんですよ」
鈴木と名乗る男はあくび混じりに言った。国の最高意思決定機関が、麺類の定義で議論している間に、市民の足が止まる。これが平成0x29A年の日常だ。
「で、どうすればいいんですか」
「もう、手動でやっちゃってくださいよ。ログさえ残れば後でなんとかなるんで」
「手動って、マスターキーを使えってことですか? 規則違反じゃ……」
「動かないよりマシでしょ。じゃ、承認しとくんで」
プツリと電話が切れた。私は溜息をつき、再び腰の鍵束を手に取った。自宅の鍵、実家の鍵、自転車の鍵。その中に混じった、すり減った真鍮の鍵。父の代から受け継がれている、物理的なマスターキーだ。
シャトルの制御盤に鍵を差し込み、捻る。カチリ、と硬質な音が響くと、3Dプリントされた樹脂製のギアが唸りを上げて回転し始めた。AR上の『合意形成中』の文字が、強制的に『運行可能』へと上書きされる。
「ほら、やっぱり電話が一番早い」
春子さんが得意げに言った。
シャトルがゆっくりと発車していくのを見送りながら、私は鍵束をポケットにしまう。高度な暗号技術も、厳密な合意形成も、結局はこの錆びた鍵一本と、電話帳の殴り書きに支えられている。世界は計算ではなく、惰性と手作業で回っているのだ。
誰もいない整備場で、私はもう一度、鍵の重みを掌で確かめた。