指先に残る、糊のゆらぎ

──平成0x29A年10月25日 12:20

 お湯を注いで三分。カップ麺「平成一丁」の蓋の上で、タイマーが刻む数字を眺めている。十二時二十分。旧大田エリア、有限会社佐藤プレスのバックヤードは、錆びた鉄粉の匂いと古いエアコンの唸りに満ちていた。

「蓮さん、摂取カロリーが推奨値を三パーセント超過しています。午後の作業効率に影響が出る恐れがあります」

 右耳に埋め込まれたデバイスから、合成された無機質な声が響く。法定倫理検査で不在の祖母・芳江に代わって一週間前から私のサポートに入っている、汎用型AI秘書の『ベータ』だ。祖母なら「たまにはジャンクなもんも食べな」と笑ってくれるところだが、この代理エージェントにはその手の融通が一切効かない。

「うるさいよ。これが昼休みの醍醐味なんだ」

 私はカップ麺の蓋の裏に付いていた「おまけシール」を剥がした。九十年代に流行ったという格闘ゲームのキャラクターが、ホログラム加工で不自然に輝いている。これを三枚集めると、液晶ゲーム機が当たるキャンペーンに応募できるらしい。誰も応募なんてしないだろうが、この「無駄な期待」こそが平成エミュレートの核だと、どこかの学者が言っていた気がする。

 その時、手元の支給用タブレットが小刻みに震え、けたたましいアラートを鳴らした。

『緊急通知。第0x5F2A内閣ユニットより、あなたを次の五分間の内閣総理大臣に選出しました。量子乱数ロックを解除してください』

「またか……」

 私は溜息をつき、麺を啜る手を止めた。指紋と網膜、さらにランダムに生成される光のパターンに視線を合わせ、量子乱数ロックを解除する。画面には、党ドクトリンに基づく「政策変更リクエスト」の差分が流れてきた。

「ベータ、要約して」

「はい。案件は一つ。旧大田エリアにおける『地域温熱ネットワークの最適化』です。党中央アルゴリズムは、冬季に備えた熱源の再分配として、一部の旧式ボイラーを廃棄し、クラウド計算ノードの排熱に切り替えることを提案しています」

 ベータの淡々とした説明を聞きながら、私は画面をスクロールした。暗号化された署名欄が点滅している。しかし、ふと違和感を覚えた。元データである「差分断片」のテキストには、『地域猫への給餌設備』という文字が混じっている。熱源(ヒート)と猫(キャット)を、ベータの翻訳エンジンがどこかで混同しているようだ。

「これ、ボイラーの話じゃなくて、野良猫の餌やり場の撤去じゃないのか?」

「いいえ。文脈解析によれば、これはエネルギー効率の改善案です。承認を推奨します。署名まで残り百二十秒です」

 ベータは平然と言い放つ。アルゴリズムが末期症状を起こしているのか、それともこのAI秘書の翻訳能力が低いのか。あるいは、どちらも同じことなのかもしれない。

 バックヤードの入り口が開いた。工場長が「おい、回覧板だ」と言って、手垢で黒ずんだ木製のボードを机に置いた。そこには、インクが滲んだ紙が挟まれている。内容は『秋の全国交通安全運動』の実施要領だった。数百年前の様式が、デジタル統治の裏側でいまだに物理的な質量を持って回っている。

「閣議、終わったか?」

 工場長が私の手元のタブレットを覗き込んで、ニヤリと笑った。彼は私の祖母が生きていた頃からの知り合いだ。

「あと一分です。ベータが、猫をボイラーだって言い張るんですよ」

「はは、そりゃいい。どっちも温かいからな。適当に署名しとけ。党が決めたことに逆らっても、パケットの無駄だ」

 私は残り十秒で、画面の承認ボタンをタップした。五分間の総理大臣の任が解かれ、タブレットは再びただの薄い板に戻る。誰かがどこかで猫を追い出し、誰かがどこかで暖かい部屋を手に入れる。あるいは、その逆か。暗号化された結果は、私にはもう見えない。

 麺は少し伸びていた。私は最後の一口を飲み込み、カップの底に残ったスープを回覧板の裏側に一滴こぼした。慌てて指で拭う。指先に、さっき剥がしたおまけシールの糊の粘着感と、微かなスープの温かさが残った。

「蓮さん、回覧板への物理的な汚染は、コミュニティの信用スコアを〇・二ポイント低下させる可能性があります」

 ベータの忠告を聞き流しながら、私はベタつく指をジーンズで拭いた。祖母ならきっと、黙ってポケットからティッシュをくれただろう。画面の中の「党」が何をどう統治していようと、私の指先にあるこの不快な、けれど確かな感触だけは、どのアルゴリズムもまだ翻訳できていないようだった。