カセット台帳と、鳴らない警報
──平成0x29A年09月20日 08:10
俺の名前は今井 拓也。33歳。第8治安ブロックの夜間巡回員だ。
今朝は08時10分、ちょうど日勤への引き継ぎの時間帯だった。
腕時計の針が刻む音だけが、薄暗い詰所に響いている。アナログ式のこいつは、祖父の形見だ。電池交換のサブスク決済が毎月自動で引き落とされるが、正直、時刻なんてエージェントに聞けば済む話だ。それでも外せない。
「拓也、そろそろ代理が来るぞ」
エージェントの声が耳の奥で響く。兄貴の声だ。今井 健太郎。享年29。パトロール中の事故で死んだ。
でも今日は、その兄貴じゃない。
「倫理検査、今日までだっけ?」
「ああ。昨日の夜から代理モデルに切り替わってる。お前が聞いてるのは標準音声Cだ」
声は確かに兄貴に似ているが、抑揚が平坦だ。記憶の引き出し方も機械的で、会話のテンポが噛み合わない。こいつは俺の兄貴じゃない。ただのテンプレートだ。
引き継ぎ書類をめくりながら、ふと目に留まったのが「高層農業プラント第9棟、警報テスト実施予定」の項目だった。
09月20日、09時00分。つまり今日だ。
「これ、承認降りてるのか?」
「確認します……党ドクトリン署名、未着です」
代理エージェントの返答は即座だが、感情がない。兄貴なら「また上が遅れてんのか、クソが」とか言うところだ。
机の引き出しを開ける。中には前任者が残していった古いファミコンカセットが転がっていた。『スーパーマリオブラザーズ』。誰が何のために置いたのか知らないが、平成エミュの名残なのか、こういう小物がやたらと残っている。
「拓也、警報テストは中止すべきです。署名なしで実施すれば、住民への通知義務違反になります」
「でも、もう機材は組んであるんだろ?」
「はい。プラント管理課の技師が昨夜セットアップを完了しています」
俺は時計を見た。08時18分。あと42分で警報が鳴る予定だ。
署名が降りなければ、止めるしかない。でも止めれば、次の点検スケジュールがまた数ヶ月先送りになる。その間に本物の火災が起きたらどうする?
「代理、兄貴ならどうする?」
「……データ不足です。回答できません」
やっぱり、こいつは兄貴じゃない。
俺は立ち上がり、詰所の壁に貼られた巡回地図を見た。プラント第9棟は徒歩15分の距離だ。
「行ってくる」
「拓也、勤務時間は終了しています。日勤担当に引き継いでください」
「引き継ぎ書類に署名がないって書いとけ」
詰所を出ると、朝の空気が肺に染みた。高層農業プラントの巨大なシルエットが、朝日を背に黒々と聳えている。
到着したとき、技師がすでに撤収作業を始めていた。
「署名、降りなかったんですか?」
「ああ。お疲れさん」
技師は肩をすくめた。俺も何も言えなかった。
その日の夕方、兄貴のエージェントが戻ってきた。
「拓也、倫理検査終わったぞ。で、今朝は何があった?」
「……警報テスト、中止になった」
「署名なし?」
「ああ」
兄貴はしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「お前、現場行ったんだろ」
「……なんで分かる」
「お前の歩数カウント見りゃ分かるよ。バカだな、お前」
その声は、確かに兄貴だった。
俺は腕時計を外して、文字盤を撫でた。針は正確に時を刻んでいる。でも、警報は鳴らなかった。
兄貴が死んだあの日も、警報は鳴らなかった。