匂いだけが残る、配線の向こう

──平成0x29A年10月23日 15:30

俺の仕事は、旧渋谷エリア地下通信ハブの保守だ。正確には「光ファイバー束の物理的継続性監視」という名目だが、実際にはケーブルが切れていないか見回るだけ。

十月の午後、湿った空気が地下道に漂っている。換気が追いついていないのか、カビと古い絶縁体の焦げた匂いが鼻をつく。ガラケーが腰のポーチで震えた。着信じゃない。定期通知だ。『第0xA7B2内閣ユニット、政策差分リクエスト受信。対象:通信インフラ冗長化廃止案。レビュー期限5分』

またか。俺は溜息をついて、ケーブルトレイの下を覗き込んだ。

「悟、署名アルゴリズムの解読率が93%を超えてる。この案件、非公式ルートでもう通ってるよ」

親父の声がイヤホンから流れてくる。城島悟——享年47、過労死。俺の父で元通信技師。エージェントになってからも相変わらず仕事のことばかり言う。

「非公式って、どういうことだよ」

「党ドクトリンのチェックサムが形骸化してるんだ。実務レベルでは、みんな『通るべきもの』を先に決めて、後から署名を偽造してる。今回もそうだろう」

俺は配線の束を一本ずつ確認しながら歩く。光ファイバーの先端が微かに青白く光っている。データが流れている証拠だ。冗長化廃止——つまり、このケーブルの半分は無駄だから切れ、ということだ。

ガラケーが再び震える。『レビュー期限残り3分』

「悟、承認しておけ。どうせ非承認にしても誰かが通す」

親父の声は淡々としている。正論だ。でも、俺はこの地下道で十年働いてきた。冗長化があるから、ケーブルが一本切れても通信が途切れない。それがインフラの基本だろう。

俺はポケットからMDプレーヤーを取り出した。イヤホンを耳から外し、親父の声を遮断する。代わりにMDから流れてくるのは、2000年代のJ-POPだ。親父が生前よく聴いていた曲。このプレーヤーは親父の形見で、ディスク自体は分散ストレージにバックアップされているが、俺は物理メディアで聴くのが好きだ。

配線の奥に、小さな匂い再現デバイスが転がっていた。誰かが置き忘れたのか、それとも不法投棄か。俺は拾い上げて起動ボタンを押してみる。一瞬、甘いコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。誰かの記憶の断片だ。

ガラケーが最後の通知を送ってくる。『レビュー期限終了。自動非承認処理完了』

俺は何もしなかった。承認もしなかったが、非承認の意思を示したわけでもない。ただ時間を過ぎさせただけだ。親父の言う通り、どうせ誰かが通す。非公式ルールが優先される。

イヤホンを耳に戻すと、親父の声が戻ってきた。

「悟、次の案件が来てるぞ。今度は電力網の——」

「ああ、わかった」

俺は匂い再現デバイスをポケットにしまい、ケーブルトレイの下を這い続けた。冗長化が残るかどうかは、もう俺の手を離れている。ただ、このケーブルが光り続ける限り、俺はここを見回り続ける。それだけだ。

MDプレーヤーからは、まだ親父の好きだった曲が流れている。