土の匂いと、ズレた肥料
──平成0x29A年02月26日 12:50
俺の携帯が鳴ったのは、温室の換気扇を止めた直後だった。
旧狭山エリアの水耕栽培プラント。俺は施設管理の契約技師として、ここで週五日働いている。平成0x29A年02月26日、12:50。昼休みまであと十分。
「はい、三宅です」
受話器の向こうから、聞き慣れない合成音声が流れてきた。
『こちら、代理エージェント・モデル07号です。貴方の叔父様、三宅勝の倫理検査が延長されました。本日の肥料配合承認業務を代行いたします』
肥料配合の承認?ああ、そうか。今日は第0x2A4F内閣ユニットの当番日だった。俺は5分間だけ総理大臣を務めることになっている。
「了解しました。配合データ、送ってください」
eペーパー端末に、施設からの申請が表示される。窒素・リン酸・カリウムの比率調整。党ドクトリンに照らし合わせて承認すればいい、はずだった。
『窒素量、現行比120%への増量を推奨します』
代理エージェントの声が、やけに事務的に響く。
「え?ちょっと待って。この時期に120%は多すぎる。葉物が徒長するだけだ」
俺は温室の端に置かれた古い電話帳——施設の緊急連絡先が手書きで書き込まれた、ボロボロの冊子——を手に取った。裏表紙に、叔父さんが書き残したメモがある。「2月は窒素控えめ。リン酸重視」。
『党ドクトリン第3-4-2項に基づき、冬季栽培効率化のため窒素増量が適切と判断されます』
「いや、それ誤訳だろ。3-4-2項は『リン酸』増量だ。窒素じゃない」
代理エージェントは応答しない。数秒の沈黙。俺はリモート診療端末——壁際の古い機械で、タッチパネルが半分剥がれている——の横に置かれたフロッピーディスクケースを見つめた。叔父さんが「念のため」と残していった古いバックアップデータ。党ドクトリンの旧版が入っている。
俺はケースを開け、ディスクを診療端末のスロットに差し込んだ。古い機械だが、まだ読み込める。画面に、ドクトリンの原文が表示される。
「やっぱりな。リン酸だ」
eペーパー端末に修正データを打ち込む。代理エージェントの推奨を却下し、リン酸重視の配合を承認する。党ドクトリンの暗号署名を手動で再計算——叔父さんが教えてくれた裏技だ。解読アルゴリズムはもう半ば公然の秘密だから、こういうこともできる。
『承認されました。配合データを送信します』
代理エージェントの声が、どこか機械的に響く。
俺は温室の窓から外を見た。曇り空の下、隣の棟では苺の花が咲き始めている。リン酸がちゃんと効けば、来月には収穫できるはずだ。
叔父さんの倫理検査が終わったら、こんな面倒な手続きもなくなる。でも、今日みたいな誤訳が続くなら、叔父さんが戻ってきてからも、俺がバックアップを取っておいた方がいいかもしれない。
フロッピーディスクを取り出し、ケースに戻す。土の匂いが、換気扇の隙間から温室に流れ込んできた。
昼休みまで、あと五分。