揺らぎはデジタルの幽霊

──平成0x29A年05月22日 12:40

合成音声が告げる震度と、大型スクリーンに広がる赤い同心円を、僕はコンビニのおにぎりを咀嚼しながら眺めていた。

平成0x29A年05月22日、12時40分。第2首都圏広域防災センター、第3シミュレーション室。僕の仕事は、この箱庭の災害をただ見つめることだ。

『翔、なんか変だぞ』

ARグラスの隅に、兄さんのアバターがポップアップする。大学時代の、日に焼けた顔だ。

『13区の避難経路、妙な揺らぎが出てる。見てみろ』

言われた通りに視点をズームすると、避難者のドットを示す無数の光点が、特定のエリアで不自然に滞留し、また流れ出す奇妙な挙動を繰り返していた。まるで、見えない壁に戸惑っているみたいに。

「原因は……遺伝子ネットワークの同期不良。またか」

ため息が漏れる。この世界の隅々にまで薄く広く伝播した、かの血統の遺伝子。それを微弱なビーコンにして避難誘導を最適化するシステムは、時々こうして理由もなく揺らぐ。

上司に報告すると、デスクの向こうから面倒くさそうな声が返ってきた。「ああ、党ドクトリンの最新パッチとの非互換だろう。いつものことだ。手動で補正しろ。訓練評価に響くぞ」

手動補正なんて、膨大なドットの群れを一つ一つ誘導するようなものだ。シミュレーションが終わるまでに完了するわけがない。

『落ち着けって。昔、二人でやったシミュレーションゲームみたいじゃんか』兄さんが能天気に言う。

『ゲームじゃないんだよ、兄さん。これは仕事』

僕は舌打ちしながら、埃をかぶった旧世代のバックアップ・プロトコルに手を伸ばした。制御ラックの下段に鎮座する、3.5インチのフロッピーディスクドライブ。ラベルの文字はもう掠れて読めない。

これを起動すれば、ネットワークを初期化して同期ズレを強制リセットできる。だが、それには現場の避難所に設置されたエッジAI端末からの物理認証が必要だ。ここからではどうしようもない。

万策尽きた、と思ったその時。

『なあ翔。この前の倫理検査の時、検査官が言ってたんだよ』

兄さんの声が、妙に真剣な響きを帯びた。

『人格データも、ある意味じゃ遺伝子情報みたいなもんだ、ってさ』

兄さんが何を言いたいのか、一瞬わからなかった。

『俺のコアデータにあるタイムスタンプと、お前の生体認証を組み合わせる。それで擬似的なビーコンを作って、13区のエッジAI端末に直接撃ち込むんだ。やってみる価値はある』

規定外の操作。最悪の場合、兄さんの人格データが破損するかもしれない。

「そんなことしたら、兄さんのデータが……」

『俺のデータなんて、お前が生きてる限り何度でも復元できるだろ?』

兄さんは笑った。滑落事故で死んだ、あの時と同じように。

『それより、目の前の人たちを助けようぜ。兄ちゃんとして、いいとこ見せないと』

たとえそれが、シミュレーションの中の光の粒だとしても。

僕は覚悟を決めた。左手首のデジタル円ウォレットに指を触れ、個人認証を起動する。兄さんの提案通りにコマンドを打ち込み、エンターキーを押した。

僕の生体情報と、兄の人格データの一部が光の奔流となってネットワークを駆け巡る。一瞬の静寂。そして、モニター上の避難民ドットの揺らぎが、すっと収束した。

正常なフローを取り戻した光の川を眺めながら、僕は安堵のため息をついた。

ふと、机の脇に置いてあった茶色い紙袋が目に入る。先日、古いフィルムカメラで撮った風景写真の「現像袋」だ。まだ中身は見ていない。

『うまくいったな』

兄さんの声がした。いつもと何も変わらない、明るい声。

『なあ翔、今度の休み、あの写真、見に行こうぜ。お前が撮ったやつ』

システムの歪みが生んだ幽霊は、兄の形をした優しい光に祓われた。僕は静かに頷き、冷たくなったおにぎりの最後の一口を、ゆっくりと飲み込んだ。