教室の隅でパケットロスを拾う
──平成0x29A年01月27日 12:40
昼休みも半ばを過ぎた、平成0x29A年01月27日の12時40分。
私は市民教養訓練センターの教室から出る際、スマートドアのセンサーにFeliCa内蔵の分厚いガラケーをかざしてロックをかけた。ガチャリという無駄に重厚な物理稼働音は、この時代の社会安定に最適とされた「平成エミュレーション」特有の演出だ。
静まり返った廊下を、自律警備ドローンが鈍いプロペラ音を響かせて通り過ぎていく。
『陸、その教材、本当に午後の授業で使う気か?』
脳内の網膜投影ディスプレイの隅で、祖父・慎太郎のアイコンが点滅した。肺炎で亡くなるまで場末の映画館で支配人をしていた、彼の近親人格エージェントだ。
私の手元には、色褪せた紙の「チケットの半券」と、現像済みの「フィルム写真」がある。午後の情報アーカイブと遺伝子系譜学の実習で使う、旧世紀の物理媒体サンプルだ。
「ああ。今の生徒は、データが物質として劣化する感覚を知らないからね」
『ふん。その半券は俺が手でもぎったパニック映画のやつだぞ。写真は家族旅行のピンボケだ。恥ずかしいからやめろ』
軽口を叩き合っていると、突然、視界が強いマゼンタ色にフラッシュした。
【第0x4F8A1内閣ユニット総理大臣に任命されました。任期:5分間】
またか。数十万のユニットが並行処理される中、ランダムで回ってくる確率など月に一度あるかないかだが、昼休み中とは運がない。
即座に、党ドクトリンに基づく閣議リクエストが展開される。内容は「皇室遺伝子ネットワークにおける第14エリアの微細な異常に対する措置」。
国民の遺伝子に薄く広く伝播した血統を繋ぎ、誰も意識しないうちに天皇制の概念を維持している巨大なバックグラウンドシステム。その一部ノードが、原因不明のパケットロスを起こしているらしい。
アルゴリズムが提案してきた解決策は冷酷だった。「異常ノードの論理的切断および再ルーティング」。つまり、通信不良を起こしている数十人の市民を、システム上から一時的に切り捨てるというものだ。
生活に実害はないとはいえ、誰かの見えない繋がりをハサミで切るような提案に、私は躊躇した。
『陸』と、祖父の声が響いた。『その半券を見てみろ。ギザギザに破れてるだろう。フィルムだってノイズだらけだ。でもな、欠けてるからって、それが記録の価値を下げるわけじゃないんだよ』
その言葉に背中を押され、私はアルゴリズムの提案を非承認にした。代わりに、末期特有のガバガバなセキュリティホールを突き、半ば公然と解読されている旧プロトコルでの「再同期要求」を差分リクエストとして上書きする。暗号署名を完了した直後、タイマーがゼロになった。
【任期終了。お疲れ様でした】
ふう、と息を吐く。手元のフィルム写真を蛍光灯の光に透かすと、不鮮明な家族の笑顔がそこにあった。
「……ありがとう、じいちゃん」
『気にするな。午後の授業、噛まないようにしろよ』
スマートドアの向こうから、昼食を終えた生徒たちの足音が近づいてくる。巡回中の自律警備ドローンが「異常なし」と電子音を鳴らした。
切り捨てられそうになった世界の小さな綻びは、今日も無事に繋ぎ止められている。