感光する朝、複写される体温
──平成0x29A年04月18日 06:10
午前六時十分。第十四技術開発ブロックを巡回する自動運転シャトルの車輪が、アスファルトの亀裂を拾って小さく跳ねた。
「次は、次世代動力源研究所前。お降りの方は、降車ボタンでお知らせください」
天井のスピーカーから、古めかしい合成音声アナウンスが流れる。私は眠気で重い瞼をこじ開け、プラスチック製の黄色いボタンを押し込んだ。「止まります」という赤い文字が点灯する。この無駄に物理的な反応が、今の社会を規定する『平成ドクトリン』の作法だ。
「健くん、また徹夜? 隈がひどいよ」
視界の端、透過ディスプレイに妻の佳苗が映し出される。彼女は三年前、プラズマ加速器の事故で逝った。今は私の近親人格エージェントとして、網膜に直接語りかけてくる。
「新型エンジンの燃焼サイクルが安定しなくてね。党のアルゴリズムが求める『平成的出力』の定義が、昨日から微妙にズレ始めたんだ。九十年代の低燃費と、ゼロ年代の馬力至上主義が混線している」
「大変だね。でも、あんまり根を詰めないで」
佳苗の声は、生前と変わらず少しだけ鼻にかかっている。彼女の倫理検査は先月終わったばかりだから、今の彼女は『限りなく本人に近い』はずだ。
シャトルを降り、研究棟のゲートをくぐる。セキュリティチェックは遺伝子ネットワークによる自動照合だが、その後に待っているのが厄介だった。
「宇佐美主任、例の燃焼データのバックアップですが、またデジタル署名が弾かれました。党の最新ドクトリンが、高解像度の生データを『非日常的』と判断したようです」
後輩の島田が、困り果てた顔で使い捨てカメラを差し出してきた。紙の箱に入った、プラスチック製の安っぽい筐体だ。
「またこれか。光学記録なら『当時の技術限界』として承認されるってわけか」
私はカメラを受け取り、ジジジ、とダイヤルを回してフィルムを巻き上げる。二十四枚撮り。失敗は許されない。超伝導エンジンの青白い火花を、わざわざこのチープなレンズ越しに、感光剤へと焼き付けるのだ。暗号化されたブロックチェーンの統治下で、最も信頼されるのが銀塩フィルムだという皮肉に、私は乾いた笑いしか出なかった。
実験を終え、事務局へ向かう。研究費の精算もまた、平成の儀式に従わなければならない。
「領収書、お願いします。宛名は『第0x31B1内閣ユニット』で。但し書きは『実験用光学記録媒体代』」
売店の店員に告げると、彼女は慣れた手つきでカーボン複写の領収書を取り出した。私はボールペンを握り、自分の氏名を記入する。筆圧をかけないと下の紙に写らない。この指先に伝わる抵抗感こそが、この時代の『支払い』の証明だ。
「はい、これ。お疲れ様」
佳苗が視界の中で、私の手元を覗き込むように笑った。
「佳苗、見てろよ。この領収書が受理されたら、次の五分間、僕が総理大臣のユニットを引く確率が上がる。そうしたら、この面倒なアナログ手続きを全部……」
「……全部、今のままにするんでしょ? 健くん、本当はこの不便さが気に入ってるもの」
図星だった。私は複写された二枚目の感圧紙を剥がし、その独特の、少し酸っぱいようなインクの匂いを嗅いだ。デジタル化された世界で唯一、体温の痕跡が残る場所。不便で、ズレていて、だからこそ私たちがかつて生きていた実感が、この薄い紙切れには宿っている。
シャトルが再びやってくる音が聞こえる。朝の光が、使い捨てカメラのレンズに反射して眩しく光った。私は次の二十四枚を巻き上げるために、再びダイヤルに指をかけた。