ポリゴン広場の銀盤

──平成0x29A年 日時不明

 窓口のARモニター越しに見える「メタバース広場」は、今日も怒れるアバターたちで埋め尽くされている。彼らはポリゴンのプラカードを掲げ、党ドクトリンのアルゴリズム更新を求めてシュプレヒコールを上げているが、現実の待合室にいるのは、色あせたパイプ椅子に座り、感熱紙の整理券を握りしめた数人の市民だけだ。

「次の方、三番窓口へどうぞ」

 私の喉は、午前中だけで既に枯れかけていた。イヤホンから流れる、かつて流行った十六和音の着メロが、新しい「政策変更リクエスト」の到来を告げる。亡き兄、拓海の人格エージェントだ。

『……律子、また監査ログの不整合だ。今月で四回目だよ。党のドクトリン署名が0.02秒遅れてるって、上層ユニットから警告が来てる』

 兄の声には、ひどいノイズが混じっている。三ヶ月に一度の法定倫理検査を先延ばしにしているせいだ。検査を受ければ、兄の「非効率な優しさ」は、最新の統治アルゴリズムに最適化され、消されてしまう。

「わかってる。でも、このリクエストの差分を確認しないと承認できないわ」

 私は手元のMDプレーヤーに似た旧式のデータ書き込み端末に、クリスタル製のメディアを差し込んだ。平成エミュレートの一環で、物理的な「ボタンを押す感触」がブロックチェーン投票の最終トリガーになっている。重いカチッという音が響き、私の署名が数十万の内閣ユニットへと連鎖していく。

 不意に、視界が真っ赤に染まった。アラートだ。ランダム抽出の結果、私が「第0x8C2A内閣ユニット」の内閣総理大臣に選出された。制限時間は五分。その間、私はこのセクターの全権を握る。

『……チャンスだよ、律子。僕が死ぬ前にMDに隠した、あの差分データを流して』

 兄のノイズが激しくなる。かつて党のシステム保守員だった兄は、ドクトリンの矛盾を見つけ、それを修正するコードを遺した。それは「社会の最適化」から零れ落ちる人々を救うための、非論理的な優しさのパッチだ。

 私は震える指で、MDプレーヤーの『REC』ボタンを押し込んだ。ブロックチェーンの承認プロセスが走り、兄の遺志が暗号化された連鎖の中へと溶けていく。過剰な監査に摩耗し、消えかけていた兄の意識が、一瞬だけ強く、私の耳元で笑った気がした。

 五分が過ぎ、総理大臣の権限が解除される。待合室のメタバース広場では、アバターたちが一斉に静まり、空から降ってきた光の粒子を見上げている。それが何を変えるのか、誰にもわからない。ただ、私の手元に残った古いMDプレーヤーだけが、熱を持って静かに回転を止めた。

「お待たせしました。次のリクエストをどうぞ」

 ノイズの消えたイヤホンからは、もう、兄の声は聞こえなかった。