甘いトマトと、解読されたコード
──平成0x29A年08月12日 17:00
プラント内の温度は自動調整されているはずなのに、なぜか今日はムッとした空気が肌にまとわりつく。
湿度センサーの表示がホログラムで揺らめいていた。赤い字で「ALGORITHM AUTHENTICATION FAILURE: REVIEW REQUIRED」と。もう見慣れたメッセージだ。
「健太、サンシャイン1号の糖度はどうだね?」
隣で、父のエージェント、陽介が腕組みをしながら尋ねる。父は生前、定年後に家庭菜園にのめり込んでいた。その知識が、こうして私の仕事の助けになっている。
「はい、親父。今日もばっちりです。観測糖度14.8、完璧です」
私は計測デバイスをトマトに当て、ホログラムの数字を確認する。真っ赤に熟した「サンシャイン1号」は、その名に恥じない輝きを放っていた。来週には市場投入の最終承認が降りるはずだった。
ガラケーが不機嫌なバイブレーションを始めた。ディスプレイには「部長」の文字。指でスライドすると、少し掠れた声が聞こえる。
「健太か。あの件だ。内閣ユニットの承認アルゴリズムがまたおかしくなった。党ドクトリンの署名が通らないらしい」
「またですか」
「ああ。今回はちょっと厄介だ。どうやら署名アルゴリズムの肝の部分が、ご丁寧にネットに流出しちまったらしい」
部長はため息をついた。私も同じ気持ちだ。ここ数週間、この手のトラブルが頻発している。アルゴリズムが解読されて、システムが不安定になっているのは周知の事実だった。
「で、どうしろと?」
「暫定措置だ。旧式のプロトコルで申請書をFAXで送れ。内閣ユニットの下請けが手動で処理するらしい。紙の現物が一番信じられる、とかなんとかで」
「FAX、ですか」
思わず聞き返した。このプラントでFAX機が稼働しているのを見たのは、入社以来数回しかない。大抵は資料庫の片隅に埃をかぶっているはずだ。
「ああ。アナログも捨てたもんじゃないな、ハッハ」
部長は乾いた笑いを残して通話を切った。私は父のエージェントに顔を向ける。
「親父、FAX機ってどこにあるか知ってる?」
「ああ、確か…資材倉庫の奥だな。棚の影になって見えにくいかもしれん。しかし、アナログとはな。昔はこればっかりだったが、まさかこんな時代にまた使うとはのう」
父の助言に従い、資材倉庫の奥から埃まみれのFAX機を引っ張り出した。古い紙とインクの匂いがする。隣接するオフィスエリアの複合機で「サンシャイン1号」の承認申請書を印刷し、父の隣で古いFAX機のダイヤルを叩く。
けたたましい送信音が鳴り響き、ようやく紙が吸い込まれていく。その時、プラント全体に合成音声アナウンスが響き渡った。
「お知らせします。第0x2A3C内閣ユニットより。閣議決定アルゴリズム、セキュリティパッチがリリースされました。システムは安定化に向かいます」
私は送信完了を示すランプを見て、ほっと息をついた。これでやっと…
しかし、わずか数秒後、同じ合成音声が少し不穏なトーンで告げた。
「訂正します。閣議決定アルゴリズム、新たな脆弱性が確認されました。署名プロトコルの再構築が必要です。暫定措置として、全ての申請は従来のアナログ方式による物理署名とFAXでの送信を推奨します」
父のエージェントがフッと笑った。「結局、人間が一番信用できる、ということかのう」
私は呆れて、目の前の完熟トマトを一つ手に取った。真っ赤な果実に歯を立てる。パリッとした食感のあと、濃厚な甘みが口いっぱいに広がった。
システムの混乱も、アルゴリズムの脆弱性も、このトマトの味とは何の関係もない。ただただ、美味い。これが真実だ。
私はもう一度、FAX機の方を振り返った。送信ランプは消えている。このまま、アナログな方法で申請を送り続けるしかないのだろう。いつまで続くか分からない、この苦味のある甘い日常が。
そして、もう一つトマトを手に取り、父のエージェントに差し出した。
「親父もどう?」
父は無言で首を振った。エージェントは味を感じられないことを、私はうっかり忘れていたのだった。