巻き戻し禁止、十八時開演

──平成0x29A年08月12日 18:00

平成0x29A年08月12日、十八時。

私はライブハウス「カササギ」の受付に立って、指先の乾きを気にしていた。夏の匂いは、外のアスファルトじゃなく、室内のケーブルと消毒ジェルの匂いになる。

入場は生体認証だ。手首の静脈をかざすと、金属のゲートが「ピ」と鳴り、天井に薄いホログラム掲示が浮かぶ。

《本日の非公式ルール:録音機器の“巻き戻し”禁止》
《公式規約:録音は許可制。巻き戻しの規定は存在しません》

二段で出るのが、うちの癖だ。

「奈々、また出てるよ。非公式のほう」
耳の奥で、父の声がした。私の近親人格エージェント――篠塚 恒一。享年57、急性心筋梗塞。生前はこの箱のPAで、客よりステージの機嫌を取るのが上手かった。

『公式なんかより、現場が回る方を優先しろってやつだ。お前も分かってんだろ』

私は分かっていた。今日の出演は「平成復刻ナイト」。ガラケー型の会員証にサブスクのチケットを紐づけて、入ったらMDウォークマンの貸し出しがある、あの手の企画だ。

なのに、客の半分はカセットテープを持ってくる。透明ケースに手書きのラベル。「08/12 18:00—」と、まだ起きてもいない夜の番組名まで書いてある。

ステージの転換中、客席には深夜ラジオが流れる。正確には、深夜ラジオ“風”の配信だ。ラジオのジングルの後に、AR広告が割り込んでくる。

《今なら“平成冷やし中華”定期便》

深夜ラジオのくせに、夕方の胃袋に刺さる。

入場列の先頭で、若い男が小さなカセットレコーダーを握りしめていた。新品のように角が立っている。

「持ち込みですか?」

「ええ。巻き戻し、しません」

それは宣誓みたいな言い方だった。

ゲートに手首をかざすと、生体認証が一瞬だけ赤く点滅した。

《認証一致率 93%/補助確認が必要》

男は焦って、もう一度手首を差し出した。汗が光る。

『ここで止めるな』と父が言う。『いま止めたら、列が崩れる。崩れたら、非公式が公式になる。よくある』

私は受付の端末を覗き込んだ。本人の名前、ブロック、過去の入場履歴。スクリーンの端に、小さな通知が流れていく。

《第0x7A31C 内閣ユニット:差分断片レビュー依頼》
《案件:娯楽施設における“録音巻き戻し”の取扱い》

こんなタイミングで。

五分だけ、どこかの誰かが総理になる。だけど私は、総理でも何でもない。ただの受付で、ただの現場だ。父のエージェントが、私の視線の動きを読んで笑った気配がした。

『党の署名? 今さら巻き戻し程度で揺らがねえよ。揺らぐのは客の気分だ』

男の手首の赤点滅が、また出た。

「……手のひら、貸してもらえます?」
私は公式にはない手順を口にした。指紋でもない、掌紋でもない。うちの箱で昔からやってきた、“手の温度”の確認。ゲート横の古い金属板に手を当ててもらう。父が現役の頃に付けたやつだ。

金属がじんわり温まる。端末が勝手に補助一致を出した。

《補助一致 99%/通過》

男の肩が落ちた。

「ありがとうございます」

私はホログラム掲示の《巻き戻し禁止》を見上げた。

「録音は……いいです。ただ、巻き戻しだけは、しないでください」

「分かってます。巻き戻すと、消えちゃうから」

男は笑って、カセットを胸ポケットに戻した。

その言い方に、私は引っかかった。消える? 巻き戻しは、戻るだけだ。

ステージが鳴り始める。ドラムの音に混じって、深夜ラジオのパーソナリティが、まだ明けてもいない夜の相談を読む。

『――それでね、録った声を巻き戻して聞いたら、最初の挨拶が抜けてたの。怖いっていうより、寂しくて』

私はぞくりとした。客席のあちこちで、カセットのメカ音が小さく立つ。再生ボタンの押し込み。

端末の通知が、また流れる。

《差分断片:非公式ルールの正式化を提案》
《理由:巻き戻し操作が、エージェント記録の“欠落”と相関》

父の声が、少しだけ低くなった。

『な、現場の方が先に知ってる。巻き戻すと、欠ける。あいつらの倫理検査の間の記録も、よく欠ける』

私は喉の奥が乾いた。父は今、検査対象じゃない。けれど、いつでも欠ける側にいる。

列はまだ続く。私は次の客に笑顔を向け、手首の静脈を見せてもらう。

ホログラム掲示が、誰かに見られているみたいに微かに揺れた。

《本日の非公式ルール:録音機器の“巻き戻し”禁止》

《……非公式、継続》

公式が追いつくまで、現場が先に守る。

深夜ラジオが、ステージの音に溶けながら言った。

『今夜も、あなたの録音が欠けませんように』

私は、カセットの小さな窓を思い浮かべた。磁気の帯は目に見えないのに、確かにそこにある。

父のエージェントが、ふっと息をついた。

『なあ奈々。俺の声も、巻き戻さないでくれよ』

「うん」と私は、誰にも聞こえないように返事をした。

たぶんそれが、今日の唯一の公式だった。