賽銭箱の下で鳴る認証音

──平成0x29A年06月04日 00:00

平成0x29A年06月04日、ちょうど零時。私は町の小さな寺の庫裏で、ろうそくの煤と消毒アルコールの匂いに挟まれながら、机の上の紙のカレンダーを指でなぞっていた。

「四日。——ほら、ちゃんと赤で囲っとけって言ったろ」
耳元で、父の声がする。私の近親人格エージェントだ。生きていた頃と同じ、しわがれた小言。

囲ってある。なのに、私はもう一度ペンを取り、同じ日に二重丸を足した。今夜は“祈祷料の入金と、病気平癒の記録”を連鎖に載せる日。寺の会計は、現金と通帳とチェーンの三つ巴で、いつも最後にどれかが嘘をつく。

足の甲に貼ったナノ医療パッチが、微熱を吸い取るみたいにじんわり冷たい。昼に檀家さんの段差で捻ったのを、父が「貼っとけ」とうるさかった。

賽銭箱の横、古い受付端末の脇に、3Dプリント部品の小箱が置いてある。割れた鈴紐の留め具を出力したやつだ。樹脂の匂いがまだ新しい。

私は本堂に出て、鈴を軽く鳴らした。音がやけに乾いて響く。留め具が軽すぎるせいだ。

「そういうとこが“平成の寺”って感じで、笑えるよな」
父が言う。笑うところじゃない。

賽銭箱の下に隠した指紋リーダに親指を押し、通帳を開く。印字は薄く、でも確かに昨日の祈祷料が入っている。紙の手触りは正直だ。問題は、その次。

端末の画面は、ガラケーのiモードみたいな縦長メニューなのに、上空にARの派手な広告がふわっと重なる。「月額・先祖供養プレミアム」——いらない。

私は「差分断片:寺社会計/祈祷料記録」を選び、入金額を打ち、賽銭箱の封印ハッシュを読み取らせた。

ピッ。

『署名不一致:党ドクトリン鍵IDが古い可能性』

一瞬、息が止まる。

「ほら見ろ、言ったじゃねえか。お前、先月の鍵更新、寝てたろ」
父が勝ち誇った声で言う。寝てない。更新通知が来たのは、葬儀の最中だっただけだ。

私は端末の奥のメンテ口を開け、3Dプリントした留め具で仮止めしてあった配線を触る。樹脂が微妙に歪んで、コネクタが半分浮いていた。鈴が乾いたのも、たぶんこいつだ。

「本物の金具使え。本物の」
父。

「金具の配給、今月遅れてるんだよ」
私は返しながら、指先で押し込む。

再試行。

ピッ。

『署名不一致:内閣ユニット参照先が分岐』

分岐? 私の背中が冷える。賽銭箱の封印ハッシュが、どこかの別の“内閣ユニット”に結びついている。

父が低く言う。「……誰かが、賽銭箱を別会計にしたんじゃねえのか」

そんな馬鹿な。賽銭箱はここにある。鍵も、封印も、私が毎日確認している。

端末が勝手に通知を出す。

『第0x7C1A2 内閣ユニットより要請:当寺の“宗教儀礼収入”を社会安定基金に統合。差分断片レビュー対象』

「統合って……勝手に?」

父が舌打ちする。「党のやつら、寺の金まで吸い上げるのか」

私は通帳を握りしめた。紙の数字は動かないのに、端末の数字だけが、誰かの都合で別の財布に流されようとしている。

『レビュー期限:00:05まで』

零時の五分間。誰かがどこかで、総理大臣みたいな役をやっているのだろう。私の祈祷料が、どこの“社会”を安定させるのか、知らないまま。

「拒否、押せ」
父が言う。

私は拒否ボタンに指を伸ばした。……が、画面の隅に小さく、別の表示が出る。

『倫理検査中のため、当寺エージェント署名は代理鍵に切替済』

「あ?」

父が黙った。私の父エージェントは、今夜だけ倫理検査で“代理”になっている。だから、いつもの小言は父の癖を真似た誰かで、署名鍵も父のものじゃない。

その瞬間、庫裏の棚の上で、父の遺影の横に置いた小さなスピーカーから、別の声がした。

「ご迷惑をおかけしております。代理の内田です。こちらの鍵、寺社カテゴリではなく“地域サブスク”に誤登録されてますね」

丁寧すぎる。父なら絶対言わない。

「誤登録?」

「はい。ですので、賽銭箱の封印ハッシュが“先祖供養プレミアム”に紐づいてます」

私はAR広告を見上げた。さっきから漂っていた、あの月額供養。

「じゃあ、拒否押したら?」

「拒否すると、サブスク解約扱いになります。明日から鈴が鳴らなくなります」

私は思わず賽銭箱の鈴を見た。乾いた音の原因は留め具だけじゃない。鈴までサブスクになってるのか。

父の声——いや、代理の声が続ける。「おすすめは“承認”です。社会安定基金に統合される代わりに、供養プレミアムが自動で更新されます」

「更新って、何が更新されるんだよ」

「本堂の鈴音、月次で高音質化されます」

私は、笑いそうになった。足のパッチが冷たくて、涙が出そうだった。

通帳の印字をもう一度見た。確かに入っている。確かにここで、誰かが祈って、頭を下げて、手を合わせた。

私は承認を押した。

ピッ。

『閣議署名:完了(代理鍵)/鈴音アップデート予約:本日01:00』

本堂に風が抜け、3Dプリント部品の樹脂がきしんだ。

「……親父、聞こえる?」
私は遺影に向かって小さく言った。

返事はなく、代わりに端末が楽しげに鳴った。

『次回おすすめ:御朱印データ化プラン(初月無料)』

私は紙のカレンダーの二重丸を見下ろし、笑ってしまった。寺は、祈りより先に、更新通知に頭を下げる場所になったらしい。