校正待ちの残像、インクのない午後

──平成0x29A年03月14日 22:50

俺の机の上には、フィルム写真が三枚並んでいる。

旧川口エリア印刷物統合管理センター、校正部門バックヤード。午後十時を回っても、校正待ちの印刷物は減らない。生成AI校正システムが導入されてから、むしろ増えた気さえする。AIが弾いた「要確認箇所」を人間が最終判断する、というのが建前だが、実際には機械が見逃したミスを拾う作業だ。

「隆、休憩取ったら?」

義兄のエージェントが、いつもの調子で声をかけてくる。画面の隅、小さなウィンドウに浮かぶ顔は穏やかだ。倉持健一。享年三十四。工場の事故で亡くなった。姉の夫で、俺が高校生の頃によく遊んでくれた人だ。

「もうちょっとだけ」

俺は、机の端に置いたPS2のコントローラーに目をやる。昼休みに少しだけ、と思って持ち込んだものだ。平成エミュの影響で、この手のレトロゲーム機はどこでも手に入る。バックヤードの隅には、充電スタンドに載ったロボ清掃員が、ぼんやりと待機ランプを点滅させている。

そのとき、校正システムの画面が赤く点滅した。

「エラー:党ドクトリン署名の検証に失敗しました」

俺は眉をひそめた。印刷物の承認には、党ドクトリンのアルゴリズム署名が必要だ。だが最近、このエラーが頻発している。アルゴリズムが解読されているせいで、署名の整合性が取れなくなっているのだ。

「また出たか」

「システム再起動してみる?」健一が提案する。

「いや、それやると全部やり直しになる」

俺は画面を睨みつけた。校正待ちの文書は、ある内閣ユニットから出された政策変更リクエストだ。内容は「公共施設における紙媒体掲示の削減」。ありふれた提案だが、これが通らないと次の手続きが進まない。

俺は机の引き出しから、古いフィルムカメラを取り出した。姉が昔使っていたもので、形見としてもらった。中にはまだ、未現像のフィルムが入っている。

「隆、それ……」

「ああ、ちょっと思いついた」

俺はカメラのシャッターを押した。パシャリ、という機械音。画面に映る署名エラーを、フィルムに焼き付ける。デジタルでは記録できない、証拠にならない証拠。

そのとき、ロボ清掃員が突然動き出した。ウィーンという駆動音とともに、俺の足元に近づいてくる。

「おい、今は掃除の時間じゃ……」

清掃員は俺の机の下に潜り込むと、何かを吸い込んだ。ガタン、という音。俺は慌てて覗き込む。

床に落ちていたのは、PS2のメモリーカードだった。

「あ」

ロボ清掃員のダストボックスが開き、中から排出される。メモリーカードは無事だったが、表面に細かい傷がついている。

「大丈夫か?」健一が心配そうに言う。

「……たぶん」

俺はメモリーカードを拾い上げた。そのとき、校正システムの画面が突然復旧した。署名エラーが消え、承認ボタンが緑色に光る。

「え?」

「何が起きたの?」

俺は画面を見つめた。ログを確認すると、システムが自動的に「代替署名パス」を選択していた。党ドクトリンの崩壊を前提とした、迂回ルート。誰かが、いつの間にか実装していたらしい。

俺は承認ボタンを押した。

「これで、いいのかな」

「いいんじゃない?」健一は笑った。「どうせ、誰も気にしないよ」

俺はフィルムカメラをしまい、PS2のコントローラーを手に取った。メモリーカードの傷を指でなぞりながら、ふと思う。

党も、署名も、校正も、全部が少しずつ壊れている。でも、誰も止まらない。

ロボ清掃員は、何事もなかったかのように元の位置に戻り、また待機ランプを点滅させている。

俺は小さくため息をついた。