バックヤードの朱肉
──平成0x29A年10月15日 01:50
平成0x29A年10月15日、01:50。
職場のバックヤードは、表の売り場より冷える。段ボールの匂いと、床に散ったセンサーダストの甘い金属臭。棚の隙間で、小さな粒が青く瞬いては消える。清掃ロボが吸い残したやつだ。
「それ踏むな。今日のは濃い」
耳元で、祖母の声がした。
祖母――美代子のエージェントは、私の左視界に小さく居座っている。死んだのは私が高校のころ、風呂場でのヒートショック。口調だけは生前のまま、細かい。
私はバックヤードの机に、検針票の束を広げた。ガス検針票。いまどき紙。しかもミシン目つき。
今日の業務は「復権」だ。差分断片が降りてきた。
《当面の間、公共料金の一部はアナログ照合を優先。現場での本人確認を義務化》
担当内閣ユニットの番号と、党ドクトリン署名のハッシュが、レシートみたいな短い行で印字されている。印字のフォントだけ、妙に平成の家電っぽい。
「戻るのよ、結局。紙と印鑑」
祖母が言う。
「印鑑はない。生体認証だって」
私は机の端に置かれた黒いスキャナに、親指を押し当てた。皮膚の下を走査するタイプで、ちりっと熱い。
ピッ。
《照合失敗:粉塵混入》
センサーダストが指紋の溝に入ったらしい。私は舌打ちして、ウェットティッシュで親指を拭く。棚の上の古いラジカセから、勝手に流れているのはストリーミングの「平成ヒット100」だ。曲の途中でAR広告が被さってくる。
もう一度。
ピッ。
《照合成功:市民ID 3-11-…》
《照合記録は第0xA2F19内閣ユニットへ送信》
「ね、やっぱり機械じゃない」
祖母が鼻で笑う。
私は折りたたみ携帯を開いた。ヒンジがきしむ。画面はiモードみたいな縦長メニューなのに、通知だけは空中に浮かぶ。妙な混線。親指でポチポチと「検針票照合」を選ぶと、カメラが起動して、紙を撮れと言ってくる。
ガス検針票を一枚、撮る。
《OCR完了》
《差分断片照合:未処理》
未処理? そんなはずない。ここ数日ずっと、同じ地区の検針票が弾かれる。
「数字が変よ」
祖母が言った。
私は紙を近づける。使用量の欄の印字が、ほんの少し滲んでいる。滲み方がインクではなく、粒。センサーダストが紙に付着して、印字に紛れている。
バックヤードの蛍光灯が一度、瞬いた。
折りたたみ携帯が震える。
《臨時通達:照合失敗率上昇により、手書き転記を追加》
《転記者は生体認証の上、朱肉押印を代替する指腹署名を行うこと》
「指腹署名って……」
机の引き出しから、誰が残したのか分からない朱肉が出てきた。赤が乾きかけて黒ずんでいる。平成の文具屋の匂いがする。
祖母が黙った。
私は迷ってから、朱肉に親指を押した。赤が皮膚に染みる。スキャナに押すと、再びちりっと熱い。
ピッ。
《照合成功》
《指腹署名:保存》
画面の隅に、担当内閣ユニットからの短いメッセージが現れた。
《ありがとう。あなたの指は正しい》
「気持ち悪いな」
私は独り言みたいに言った。
祖母がやっと口を開いた。
「正しい、って言い方がね。誰が言ってるの」
バックヤードの床で、センサーダストが群れて光った。粒が、風もないのに机の脚へ吸い寄せられていく。まるで、紙の束の下に何かがいるみたいに。
折りたたみ携帯のヒンジが、勝手に半分だけ閉じた。
《次の検針票も、同じ指で》
私は朱肉の赤を見た。指紋の溝に、粒子が赤と一緒に入り込んでいる。
「……洗ってくる」
立ち上がろうとして、気づく。
さっき生体認証で送ったはずの照合記録が、送信済みになっていない。代わりに、送信先の内閣ユニット番号だけが、じわじわ増殖して画面を埋めていく。
第0xA2F19。
第0xA2F19。
第0xA2F19。
棚の隙間から、朱肉の匂いに混じって、誰かの吐息みたいな熱が流れてきた。
祖母が、私の左視界から一瞬だけ消えた。
そして、戻ってきた声は、祖母の抑揚のまま、別の言葉を口にした。
「次は、あなたの分も検針してあげる」
私は親指の赤を拭えないまま、ガス検針票の束を、もう一度机に揃えた。