匂いのない日付、ボタンを押す指
──平成0x29A年 日時不明
日付がわからない。
ベンチに座って、膝の上のMOディスクを眺めている。ラベルには父の字で「庭の匂い 保存用」と書かれていた。230MBのほう。角が少し欠けている。
公園の噴水がごぽ、と不規則な音を立てた。タイマーが壊れているのか、出たり止まったりを気まぐれに繰り返す。ベンチの横には公衆電話がある。テレホンカードの投入口と、その下にICチップの読み取りスロットが並んでいる。どちらが本来の仕様なのか、たぶん誰も知らない。
「——朝子」
左耳の奥で父の声がする。
「それ、いつまで持ち歩いてるんだ」
「読めるドライブが見つかったら返すよ」
父——神崎義春。享年六十一。心筋梗塞で台所に倒れた。私のエージェントになってもう何年になるか。声は生前より少し高くて、語尾が揺れる癖がある。最近、その揺れがひどい。
「朝子。今日は何曜日だ」
「知らない。端末の日時表示、また欠損してる」
「……水曜だろう。水曜は資源ごみの日だ」
違う。資源ごみは木曜。父は生前からそこを間違えなかった。
人格ゆらぎ、という言葉が浮かんで、私は噴水のほうを見た。
鞄から匂い再現デバイスを取り出す。平べったい、MDプレーヤーみたいな形。MOディスクのデータを変換できれば、父が保存した「庭の匂い」を嗅げるはずだった。でもフォーマットが古すぎて、デバイスの画面には「非対応メディア」と表示されている。
「お父さん、このMOに何の匂いを入れたか覚えてる?」
数秒の沈黙。
「……金木犀だ。お前が高校のとき、うちの庭の」
うちに庭はなかった。団地の三階だった。金木犀があったのは通学路の歩道橋の下だ。
ずれている。ずれが、日ごとに広がっている。
来週——いや、次の法定倫理検査がいつかもわからないけれど、検査に出したら戻ってくるのは代理エージェントだ。無機質な応答。あの沈黙のない、正確な返答。そっちのほうが怖い。
公衆電話が鳴った。
鳴るはずのないものが鳴って、私は反射的に立ち上がった。緑色の受話器を取る。
『第0x7A2F1内閣ユニットの暫定内閣総理大臣に指名されました。任期は五分間です。政策変更リクエストを一件、転送します』
差分断片が左目の端にテキストで浮かぶ。
——「匂い再現デバイス用データの生成AI校正を、党ドクトリン準拠フォーマットに限定する改正案」。
つまり、旧フォーマットの匂いデータは公式には変換できなくなる。父のMOディスクも。
「お父さん」
「……うん」
「これ、否認していい?」
父は少し黙って、それから言った。
「朝子。俺はもうすぐ俺じゃなくなる気がする」
噴水が止まった。公園が静かになった。
「だから関係ないこと言っていいか」
「いいよ」
「——お前が生まれたとき、嬉しくて会社を早退した。誰にも言ってなかった」
受話器を持ったまま、私は泣きそうになった。否認ボタンを押した。署名アルゴリズムが走る。半ば解読されているはずの鍵が、今だけはちゃんと重かった。
五分が終わった。受話器を戻した。
MOディスクをポケットにしまって、匂い再現デバイスの電源を落とした。金木犀の匂いは再生できなかったけれど、父が間違えた「庭」の記憶のほうが、今はあたたかい。
日付はわからないままだ。でも、木曜ではない気がする。