不一致の証明
──平成0x29A年09月08日 07:30
午前七時半。公園のスマートドアが俺の網膜パターンを認証し、かすかな音を立てて開いた。
ひんやりとした空気が頬を撫でる。もう秋の匂いだ。
「おはようございます、坂井主任。本日の点検項目は七件。第一区画のCO2吸収率に軽微な低下が見られます」
視界の隅で、代理エージェントの無機質なテキストが流れる。
美咲なら、「おはよー! 今日も頑張ろーね! あ、そこの木、ちょっと元気ないかも?」なんて、もっと体温のある言葉をくれただろう。
彼女の法定倫理検査が始まって、もう三日。長すぎる。
俺の仕事は、この公園の緑地が生成するカーボンクレジットの数値を記録し、台帳を更新することだ。
ハンディスキャナをケヤキの幹にかざすと、光合成効率や土壌の状態が数値化されて転送される。ただそれだけの、静かな作業。
ポケットで二つ折りのガラケーが短く震えた。
開くと、中央倫理検査局からのメッセージ。指先の十字キーでカーソルを動かし、添付されたURLを開く。
画面に表示されたのは、懐かしいくらいに簡素なiモードサイトだった。チープなピクセルアートのアイコンが、点滅している。
『通知:貴殿の専属エージェント『坂井美咲』に関する倫理審査プロセスは、上位機関の承認遅延により一時停止中です』
またか。俺は舌打ちした。
「原因を照会します」と代理エージェントが気を利かせる。「第0x8A39F内閣ユニットの閣議決定が停滞しているためです。現行の党ドクトリン署名アルゴリズムの脆弱性により、承認プロセスに遅延が生じています」
「知ってるよ」
ため息をついて、ベンチに腰を下ろす。美咲が生きていた頃、二人でよくこのベンチに座って缶コーヒーを飲んだ。彼女はいつも、自動販売機のルーレットで当たりを出す、妙な才能を持っていた。
もし今、彼女がいたら。きっと「またあのヘンテコなアルゴリズムのせいでしょ? もう笑っちゃうよね!」と、この理不尽な状況を吹き飛ばすように笑ってくれたはずだ。
その時だった。視界の中央に、赤いポップアップが割り込んできた。
『通達:あなたは第0x8A39F内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました。任期は300秒です。ステークホルダーからの差分断片レビューを開始してください』
冗談だろ。俺が、あの、美咲を止めている元凶の?
目の前に、膨大な政策変更リクエストのリストが滝のように流れ始める。
道路標識の更新申請。自動配送ドローンの航路変更許可。そして――あった。
『倫理審査プロセス再開申請:ID: AGT-MskS_...』
美咲のIDだ。震える指で項目を選択する。
画面が切り替わり、巨大な『承認』ボタンが表示された。
「承認には党中央ドクトリンに基づく暗号署名が必要です」
代理エージェントが、即座に長い文字列を生成する。俺はそれを網膜キーボードで打ち込み、祈るように『承認』ボタンに視点を合わせた。
しかし、ボタンは赤く点滅するだけだった。
『エラー:署名が不一致です。承認できません』
「どういうことだ?」
「現行の党ドクトリン署名アルゴリズムは脆弱性が公然化しており、複数の非公式な解読済みキーが流通しています」
代理エージェントは、いつもの淡々とした口調で続けた。
「当エージェントが生成した正規キーは、現在、承認率が17.4%まで低下しています」
正規の鍵の承認率が、17.4%。
じゃあ、残りの8割以上は、どこかの誰かが勝手に解読した「裏口の鍵」で世の中が回っているということか。
「非公式キーによる署名を試行しますか?」
残り任期、54秒。
美咲だったら、この滑稽な状況にどんな顔をするだろう。
きっと、腹を抱えて笑い転げるに違いない。
俺は、乾いた笑いを漏らしながら、空っぽの空間に呟いた。
「ああ。頼むよ」