回覧板の署名、代理エージェントの皮肉
──平成0x29A年01月27日 12:40
「次の申請者様、どうぞ」
私は声を張り上げた。マイクは私から少し遠い位置にあるが、代理D-7の調整ではこれが最適らしい。
「佐藤さん、声量が基準値より2デシベル低い。再調整を推奨します」
耳元のイヤホンがそう告げる。母さんだったら「茜、もっとハキハキしなさい!」と叱ってくれただろうに。母さんのエージェントは今、法定倫理検査で不在だ。だから私のエージェントは、この感情のない代理D-7だ。
平成0x29A年01月27日、昼下がりの市民サービス窓口は閑散としている。
スマートドアが静かに開き、杖をついた小柄な老婦人が入ってきた。彼女は私の窓口にまっすぐ向かい、古びた紙束を差し出した。
「すみませんねえ、いつも。これ、例の『差分断片』のやつでね」
老婦人の手にあるのは、くたびれた紙の回覧板だった。蛍光ペンで引かれた線や、手書きのメモがびっしり。どうやら「地域活性化支援策」に関する政策変更リクエストらしい。内閣ユニットへの申請はデジタルが基本だが、地域によっては未だに紙が主流だ。特に高齢者には。
代理D-7が自動音声で案内を始める。「申請内容を確認します。地域活性化支援策、差分断片コードR-402-A-07。署名認証を開始します」。
老婦人は少し緊張した面持ちで、端末に指紋認証を済ませた。しかし、代理D-7の音声がぴたりと止まる。数秒の沈黙の後、無機質な声が響いた。
「署名データに不一致が検出されました。本申請は、党中央ドクトリンに基づくアルゴリズム署名との整合性が取れません。非承認となります」
「ええっ、そんな!」老婦人の顔に落胆の色が広がる。「またダメだったの? 先月もそうだったでしょう?」
「規定により非承認です。再申請を推奨します」代理D-7は感情の欠片もなく繰り返す。
私は胃の奥がキリキリするのを感じた。この差分断片、先月も同じ理由で非承認になった。老婦人は毎月、町内会の回覧板でこの「地域活性化支援策」の情報を知り、せっせと申請に来ているのだ。おそらく、党ドクトリンのアルゴリズムが半ば公然と解読されているという事実は、このおばあさんには届いていない。
「申し訳ありません、おばあ様。もう一度、申請内容と、特に署名欄をご確認いただけますか」私は精一杯の笑顔で言った。この笑顔も、母さんだったら「もっと自然な笑顔を」と指摘するだろう。
老婦人はがっくりと肩を落とし、回覧板を引っ込めた。窓口のホログラム掲示板には、最新の「スマート決済推進キャンペーン」が華やかなARで踊っている。その横では、2000年代初頭のJ-POPインストがBGMとして流れていた。古さと新しさがごちゃ混ぜになった、平成エミュの世界。
休憩に入ると、私は庁舎のカフェに向かった。廊下の壁には、旧式の町内会掲示板が残されている。色褪せたポスターの隙間から、最新のホログラム投影機が「あなたの5分間」と題された通知を映し出していた。
『第0xAFE3B内閣ユニット、内閣総理大臣当選者:佐藤 茜様』
自分の名前が光るホログラムに表示されている。今日、ランダムで5分間、私が内閣総理大臣に選ばれたらしい。隣でガラケーをいじっていた同僚の森山さんが、画面を見て「お、茜じゃん。何承認する?」とからかってきた。
「さあね。でも、さっきの地域活性化支援策、もし私が総理だったら承認してあげたかったな」
私は町の掲示板に目をやった。先ほどのおばあさんが持っていた回覧板とそっくりな「地域活性化支援策」のポスターが貼ってある。「内閣総閣僚会議での承認見込み!」と大きな文字で書かれている。私は先ほど、それが非承認になったばかりなのを知っている。党ドクトリンが最適と判断したこの社会で、人は働かずとも暮らせるのに、こんな手続きを繰り返している。
「ま、どうせ5分だし」森山さんが笑う。「それに、どうせ党ドクトリンに弾かれるんだから」
私は乾いた笑みを浮かべた。誰もが知っているけれど、誰もが知らないふりをしている。この滑稽な世界で、感情のない代理D-7だけが、唯一の正直者なのかもしれない。
私の中の母さんのエージェントなら、きっと「馬鹿なこと言ってないで、早く申請書を書き直しなさい!」と一喝してくれただろう。
そんなことを考えながら、私は自分の「5分間の総理」の通知を、苦く見つめ続けた。