午後の研修、金木犀のバグ
──平成0x29A年10月27日 17:20
「――以上が、住民合意形成プロセスにおけるブロックチェーン投票の理念です。では、最後のシミュレーションを開始します」
夕暮れの光が差し込む研修室で、教官の抑揚のない声が響く。僕の目の前のスクリーンには、『第19地区 児童公園改修案に関する投票』という文字が浮かんでいた。A案、全面改修。B案、部分補修。それぞれの政策変更リクエストから生成された差分断片が、ずらずらと並んでいる。
『茶番だな』
頭の中に、父さんの声が響く。エージェントになってから、父さんは少し皮肉屋になった。
「理念は立派だけどさ」
僕は思考だけで応じる。周囲の同期たちは、退屈そうにペンを回したり、耳に突っ込んだMDウォークマンの音量をこっそり上げたりしている。真面目に差分を読んでいるのは、僕を含めて数人だけだ。
『理念でインフラは動かんよ、隼人。結局は、党中央ドクトリンの署名が通る方に流れるだけだ』
父さんが死んだインフラ事故も、公式マニュアル上は完璧な手順が示されていた、と聞いたことがある。ただ、誰もその通りにはやっていなかった、と。
不意に、隣の席の先輩が肘で僕をつついた。彼が指差すのは、机の下で回されてきた一枚のクリップボード。昔ながらの、物理的な紙の回覧板だった。
「市川くん、これ」
回覧板には、ボールペンでこう殴り書きされていた。
『本次第、A案にて統一。B案投票者は要注意人物としてリストアップ対象』
背筋が冷たくなる。これが、研修で学ぶべき本当のルールらしかった。公式の理念より、非公式の空気を読め、という無言の圧力がそこにはあった。教官は、何も見ないふりをして窓の外を眺めている。
ブロックチェーン投票。改竄不可能な、民主主義の最終形態。その上で、こんな前時代的な同調圧力がまかり通っている。平成エミュレートの歪みが、こんなところにまで染み出しているのか。
『どうする?』
父さんが問いかける。僕は答えられなかった。
投票締め切り三分前。僕が震える指でA案に触れようとした、その時だった。
ピロン、と軽い電子音が鳴る。
視界の隅に、赤い通知がポップアップした。
【通達:第0x88A2F内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期は5分間です】
冗談だろ。こんな時に。思考が真っ白になる。研修の投票画面が強制的に切り替わり、本物の閣議案件が滝のように流れ込んできた。
『隼人、待て!』
父さんの声が鋭くなる。『そのリストの三番目を見ろ!』
僕は慌てて視線を動かす。
【案件03:第17地区 ガス供給網・圧力最適化アルゴリズムの変更要求】
『このパラメータ…! 俺が死んだ事故の時の変更案に酷似している…!』
案件には、すでに党ドクトリンに基づく暗号署名が添付されていた。承認するのが「正しい」手順だ。非承認にすれば、僕が「要注意人物」になる。さっきの回覧板の文字が、頭をよぎった。
長いものに巻かれろ。それが賢い生き方だ。
でも。
僕は、息をひとつ吸い込んで、強く「非承認」のボタンをタップした。
何も起きない。世界は変わらない。僕の5分間は、無数の並行処理の中に埋もれていくだけだろう。自己満足だ。
その瞬間、ふわりと甘い香りがした。研修室の天井に埋め込まれた匂い再現デバイスが作動したのだ。シミュレーションの演出で、公園をイメージさせる「金木犀の香り」が設定されていたらしい。
だが、僕の鼻をついたのは、金木犀に混じった、微かな異臭だった。
覚えがある。古いアパートのポストに突っ込まれていた、ガス検針票のインクの匂いに似た、あの独特の……都市ガスの匂いだ。
「おや、またバグか」
教官が面倒くさそうに壁のパネルを叩いている。僕は、その光景を見ながら、ただ乾いた笑いを浮かべることしかできなかった。