端子の接触音、朱色の物理署名
──平成0x29A年10月27日 02:50
地下五〇メートルの通信共同溝は、いつだってひどい熱気だ。冷却ファンの唸り声が、コンクリートの壁に反響して耳鳴りのようにまとわりつく。
視界の端に浮かぶARクロックは、平成〇x二九A年一〇月二七日、午前二時五〇分を告げていた。
「敬、そっちじゃない。三番ラックの裏だ」
脳内で兄さんの声がする。辻浦悟。五年前にシステム開発の過労で死んだ私の兄だ。今はエージェントとして、私の視覚野に青白いポインタを飛ばしている。
「わかってる。でも、ここ、足場が悪すぎるんだよ」
私はパイプの森を掻き分け、目的の制御盤へとにじり寄った。ヘッドライトの光が、埃をかぶった灰色の筐体を照らす。それは博物館でしか見ないような、一九九〇年代の家庭用ゲーム機――スーパーファミコンそのものだった。
冗談ではない。この第5通信ブロックのサブ制御系は、かつて安価で堅牢だったこのハードウェアをクラスタ接続して構築されたという都市伝説がある。実際、目の前で赤く点滅しているのは、カセットスロットに強引に突き刺さった拡張モジュールだ。
「エラーコード0x99。党ドクトリンの更新パッチと、ハードウェアのドライバが喧嘩してるな」
兄さんが呆れたように言った。中央の内閣ユニットから降ってきた新しい暗号化アルゴリズムが、この骨董品には重すぎるのだ。パケットが詰まり、地上の集合住宅では今頃、ストリーミング再生が止まって苦情の電話が鳴り響いているだろう。
私は手首の端末を制御盤にかざした。近傍通信タグが「ピロリン」と間抜けな音を立てて反応するが、ホログラムウィンドウには『演算リソース不足』の警告が出る。
「くそ、解読が追いつかない。兄さん、手持ちのクレジットで『時間貸しCPU』を買ってくれ。五分だけでいい」
「了解。スポット価格が高騰してるけど、背に腹は代えられないね。決済完了。外部演算リソース、接続するよ」
頭の中が一瞬、冷たい水に浸されたようにクリアになる。遠くのサーバー群が私の代わりに複雑な桁数の素因数分解を肩代わりし、暗号化された署名鍵を生成し始めた。
しかし、画面のプログレスバーは九九パーセントで止まった。
『承認エラー:デジタル署名の整合性が確認できません。物理的認証を要求します』
「出たよ。これだから古いドクトリンは」
私は舌打ちをして、腰の工具袋から小さな革袋を取り出した。中に入っているのは、象牙色の円柱。ハンコだ。
システムが高度化しすぎて一周回ったこの国では、デジタルで解決できない不整合を、最終的に「物理的な印影」というアナログな乱数画像として処理する慣習が残っている。これをスキャンさせることで、システムは「人間による強制介入」と認識するのだ。
私は携帯用朱肉の蓋を開けた。湿った地下室に、朱肉特有の油の匂いが漂う。
感熱紙のメンテナンスシートを携帯プリンタから吐き出させ、その署名欄に、息を止めてハンコを押し付ける。ぎゅっ、と親指に力を込める。
紙からハンコを離すと、そこには私の苗字である「辻浦」の二文字が、鮮やかな朱色で浮かび上がっていた。
「いい写りだ。親父が見たら泣いて喜ぶぞ」
兄さんの軽口を無視して、私はその印影を網膜カメラでスキャンし、送信した。
カセットスロットの横にあるLEDが、赤から緑へと変わる。ファンの回転数が下がり、正常な通信を示す青いランプが明滅を始めた。
「復旧完了。……やれやれ」
私は深く息を吐き、汗を拭った。指先には、拭いきれなかった朱肉が微かに残っている。
高度な暗号も、分散型台帳も、結局最後はこうして泥臭い物理現象に依存している。その滑稽さと、指先に残る粘土のような朱色の感触が、なぜか妙に心地よかった。
私はスーファミの排気口に溜まった埃を、ふう、と息で吹き飛ばしてから、出口への梯子に足をかけた。