光磁気のハミング、承認された朝

──平成0x29A年02月19日 06:50

 窓口のカウンターに置かれた古びたデジタル時計が、〇六時五〇分を表示した瞬間、私の耳元で電子的なチャイムが鳴った。
「ミナミ、姿勢。背筋が三度傾いているわよ」
 視界の端にポップアップした母さんのエージェントが、小言を飛ばしてくる。私はあくびを噛み殺しながら、反射的に背筋を伸ばした。行政区の窓口業務は、始業前の「身だしなみ同期」から始まる。私の生体データが正しい公務員のフォームをしているか、システムが常時監視しているのだ。

 目の前の大型モニターには、第3行政区の「メタバース広場」が映し出されている。色とりどりの低解像度アバターたちが、ラジオ体操の音楽に合わせてカクカクと手足を動かしていた。早朝のアクセスボーナス目当ての市民たちだ。彼らの動きはブロックチェーンに記録され、健康スコアとして還元される。その膨大なログの監査をするのが、私の今日の仕事だった。

「昨日の承認率、九十八パーセント。二件の不備があるわ」
 母さんの声は平坦だ。生前の母さんは、この窓口のベテラン職員だった。過労とストレスで倒れ、そのまま帰らぬ人となったのが三年前。遺された人格データは、皮肉にも彼女の命を縮めたこの職場での私のアシスタントとして、最適化されてしまった。

「わかってる。今チェックする」
 私は手元の端末を操作し、昨日の「次期自治会長選出ブロックチェーン投票」のログを呼び出した。数十万のハッシュ値が滝のように流れる。その中に、赤く点滅するエラーが二つ。
 不備の内容は『投票時の礼儀作法違反』。VRゴーグルを装着して投票所に入場した際、アバターが一礼を忘れたという、どうでもいい理由だった。だが、党ドクトリンに基づく監査アルゴリズムは、これを「平成的公共心の欠如」と見なしてハッシュを弾く。

「再申請の通知を送って。文面は定型文Bの四番。語尾は『申し訳ございませんが』を推奨」
「はいはい」
 母さんの指示通りにキーを叩く。私の指先は、母さんの遺伝子を受け継いだせいか、それとも幼い頃から母さんの背中を見ていたせいか、無駄のない動きでショートカットキーを駆使していた。それが少し、恨めしい。

 一通りの処理を終えると、始業の七時まであと五分あった。私は制服のポケットから、四角いプラスチックの小箱を取り出した。MDプレーヤーだ。表面の塗装は剥げ、銀色の下地が見えている。
 母さんの遺品だった。
「またそれ? 効率的なリフレッシュとは思えないけれど」
 エージェントの母さんが呆れたように言う。
「いいの。これが一番落ち着くんだから」
 私は有線のイヤホンを耳に押し込み、ディスクを挿入した。機械的な駆動音と共に、『TOC READING』の文字が点滅する。この待ち時間が、せわしないデジタル行政の中で唯一の空白地帯だ。

 再生ボタンを押す。流れてくるのは音楽ではない。
『えー、平成〇x二八五年、三月三日。業務引き継ぎに関する備忘録』
 母さんの肉声だ。エージェントの合成音声とは違う、少し掠れた、疲労の滲む声。
『監査マニュアルの第七項、特例処理についての解釈だけど……現場判断で通しちゃっていいわ。どうせ上は見てないんだから』
 真面目一徹だった母さんが、こっそり残していた「サボりのテクニック」や「裏マニュアル」。MDという、ネットワークから切り離された媒体だからこそ残せた、彼女の小さな抵抗の記録。

 私は目を閉じて、その声を聴く。母さんは死ぬまで公務員だった。私もまた、同じ席に座り、同じシステムに摩耗させられている。このMDを聴いている時だけが、母さんと「同僚」ではなく「親子」に戻れる気がした。

『……ふぅ。あー、肩凝った』
 録音の切れ目に、母さんの独り言が入る。そして、微かなハミング。曲名はわからないが、昔のアニメソングのような、優しいメロディ。
 不意に、カウンターの上の通信端末が震えた。単音の電子音がリズミカルに鳴り響く。着メロだ。曲は「第九」。緊急性の低い、一般問い合わせの着信。

「ミナミ、三番回線。メタバース広場のラジオ体操で、アバターが地面に埋まったという苦情よ」
 エージェントの母さんが、瞬時に業務モードの声で告げる。
「了解」
 私はMDプレーヤーの停止ボタンを押し、イヤホンを外した。母さんのハミングがプツリと途切れる。
 受話器を取り、私は鏡に映った自分に向けて、完璧な「公務員スマイル」を作った。
「お電話ありがとうございます。第3行政区、市民窓口でございます」

 私の声は、MDの中の母さんと、恐ろしいほど似ていた。
 窓口の外では、朝の光がモニター越しの広場を照らし、今日もまた、承認された正しさだけが世界を回し始めている。私はこっそりと、机の下でMDプレーヤーを握りしめた。母さんのハミングの続きを、声に出さずに唇だけでなぞる。
 それは、この完璧な監査システムに対する、私だけのささやかなノイズだった。