紙札の番号で、夜がほどける

──平成0x29A年07月10日 19:00

平成0x29A年07月10日、十九時。
研究棟の自動ドアが閉まると、消毒液とオゾンの匂いが一気に薄くなって、外気のぬるさが肌に戻った。

駐輪場の列の端で、私は自転車のハンドルに結ばれた紙札をほどく。鉛筆で「A-17」。毎日同じ番号のはずなのに、今日に限って「A-1T」に見えなくもなくて、指でなぞると紙のざらつきがやけに生々しい。

「視線が疲れてる。帰ったら目薬」
耳の奥で、叔父の声が言った。篠原修一、享年五十六。心筋梗塞。生前は地図が読める人で、私が方向音痴なのを笑ってた。

私は鞄から、折りたたんだ紙の地図を出す。研究棟の周辺だけ、わざわざ印刷してもらったやつだ。ARの誘導は便利だけど、今日みたいに署名系のエラーが出ると、案内もいっしょに黙る。

「ほら、ここが旧商店街。こっちが歩道橋」
叔父が、記憶の癖みたいな調子で言う。私は地図の角を合わせ、駐輪場の端にある古い街灯の位置を探す。

原因は昼からずっと、ラボの「触覚フィードバック端末」だった。
指先に微細な振動を返してくる薄い板で、政策差分の断片を触って確認する。文字の輪郭が指に伝わるから、目で追うより速い。…はずだった。

今日の差分は、研究予算の配分ルールの微修正。いつもの「党ドクトリン署名」に通る形へ整形して、内閣ユニット群へ投げるだけ。なのに端末が返す触感が、途中から妙に滑った。

“正しい”はずの箇所だけ、指が引っかからない。微妙に、ほんの一拍だけ遅れて振動が来る。署名検証のログは「一致」。でも私の皮膚だけが「違う」と言っていた。

「それ、ドクトリンの癖が変わったんじゃないの」
叔父が言う。「最近、解読屋が出回ってるから、帳尻合わせで揺れることあるって」

揺れる、で済むならいい。
けれど不整合が細かいほど、現場は苦しくなる。検証は通るのに、次のユニットで弾かれる。弾かれるのに、誰もどこが悪いと言わない。

帰り際、端末に赤い通知が出た。
【倫理検査のため、補佐エージェントの発話を一時制限します】
叔父の声が、そこで途切れた。

私は紙の地図を閉じ、自転車にまたがって、いつもの道へ出た。右折の角に、月極の小さな駐輪場がある。そこに入れると、入口のポールが「ピッ」と鳴り、端末決済の画面が空中に浮いた。平成っぽい丸いアイコン、iモードみたいな階層メニュー。なのに下には、今月分の「駐輪サブスク」更新ボタンがある。

【自転車置場サブスク:更新しますか】

私は親指で押す。触覚フィードバック端末の代用品みたいに、画面が小さく震えた。決済が通ると同時に、ポールから古い感熱紙が吐き出される。

駐輪場の紙札。
今日の日付と、番号。

受け取った紙を見て、私は息を止めた。
印字が、わずかに滲んでいる。けれどそこには確かに「A-17」とある。さっき自転車に結んであった紙札と同じ番号だ。

ラボのログは一致と言い、指先は違うと言い、叔父の声は検査で止められ、代わりにこの駐輪場だけが、紙で“同じ”を返してきた。

私は駐輪場の隅で、さっきの紙札と今の紙札を重ねる。鉛筆の線と感熱の黒が、ぴたりと合う。

その瞬間、耳の奥が少しだけ温かくなった。

「ほら、紙は嘘つかない」
途切れていたはずの叔父が、小さく言った。検査の制限をすり抜けたみたいな、かすれた声。

私は笑いそうになって、でも笑うと泣きそうで、ただ紙札を丁寧に折って財布に入れた。

明日、端末の振動がまた滑っても。
どこかの内閣ユニットがまた黙って弾いても。
今日の「A-17」が、私の手の中に残っている限り、道はたぶん、まだ戻れる気がした。